3)。次に、18枇紀の江戸における福禄寿三星図の受容例として〔図3〕をあげる。すでに松浦氏が紹介されたものであるが、三星ではなく、福禄二星という変形であるところが興味をひく。作者は、幕府旗本で牛込に住んでいた大久保忠恒(1724?■1803)。沈南頻流の花鳥画にすぐれていた。寛政2年(1790)の年紀をもち、上辺に添えられた漢詩は大田南畝である。なぜここでは寿星が描かれていないのか。縁起でもない悪ふざけ、と非難されかねない操作を敢えておこなったのは、日本ではカノープス(寿星)がほとんど見ることができない、という現実を跨まえての諧諧ではなかろうか。『武江年表』元禄2年の項が「正月十六日、頃日老人星現ず、老人星は吉事の瑞なり、治平福寿を主どるの星なりといふ」と報告するように、江戸でも常に観察される星ではなかった。こうした実態にあわせて、舶来の図像を無自覚に受容していないことから、かえって江戸の文人社会におけるこの画題の浸透ぶりが推測されよう。続いて、福禄寿三星図の使用法について二つの例を示す。ひとつは京都の儒者・皆川澳園(1734■1807)の『洪園文集』(写本)で、その巻ーに「癸亥秋八月望、児姪及び門生の輩、予が年六十に登るを以て為に慶宴を東山に設く。月倦上人これを聞き、為に三星図を画き以て贈らる、因て此れを作り以てこれに謝す」と題した詩が収録されており、享和3年癸亥(1803)、i其園60歳(実は70歳、誤写か)の祝宴に伊勢山田の画僧・月倦が三星図を贈っていることが知られる(注もうひとつは、幕末の長崎で活躍した唐絵目利・荒木千沙H(1807■76)の描いた福禄寿三星図〔図4〕。これは無背景で、三星がのぞきこむ巻物には太極(宇宙の本質をあらわす)が記されている。落款の文字は「辛亥四月中浣奉賀鋏翁大和尚栄寿荒千洲謹写」とあり、長崎春徳寺の僧・鉄翁(1791■1871)の「栄寿」の祝いに作られたことがわかる。栄寿の意味は不明だが、本図の描かれた嘉永4年辛亥(1851)は鉄翁の数えで61歳にあたっていることから、ちょうど還暦である。この=つの例は、福禄寿三星図が、長寿を喜ぶ誕生祝いとして使われたことを示している。使用法としては、南極老人星を単独で描いた、世に言う「寿老人図」と同じといってよい。従来の寿老人図に飽き足りない、ちょっとすすんだ知識人たちの間で流行したものと考えられる。江戸時代中期には庶民層に七福神信仰がひろまり、杉原た<哉氏が指摘するように、南極老人星を寿老人と呼んだり、あるいは福禄寿と呼んだりと、混乱したイメージが定着していたので、中国を規範とする文人社会としては、よけい原図像に思いを寄せたのかもしれない(注4)。-304 -
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