(1781)、治済の子・家斉が将軍の養嗣となり、江戸城西之丸へ入るという慶事があっ和合神図(万事吉兆図)これは、寒山拾得が蓮(荷花)と合子(盆)を持つ図像である。荷と和、盆と合が音通で夫婦和合の神とされる。清朝のはじめ、寒山拾得を和聖・合聖としたことに始まるといわれるが、その起瀕は明確でない。彼らは一見して異相であり、福禄寿三星などにくらべれば、よほど異国の神像らしいエスニックな雰囲気をもつ。『武江年表』文化年間の項には「此年間記事」として、和合神の画像が流行し、有名であること、近頃渡来する清朝の版画に多くあること、貴人も常に床に掛けていること、などが記されている。この時期、和合神が江戸の庶民信仰の中に浸透していたことは、すでに服部幸雄氏が、錦絵や読本からいくつも例をあげて報告された(注5)。本稿ではまず、和合神の江戸への伝播について、大田南畝が『半日閑話」の中に採録した「万事吉兆之図説」なる文書にもとづいて紹介しておこう(注6)。この文書の作者は西之丸御小性組番頭を勤めた佐野肥前守義行(1756■?)。自身も和合神の霊験で立身出世を遂げたという人物である。それによれば、この図像は元禄年間、長崎の唐通事(中国語通訳にあたる地役人)楊氏(正しくは陽氏)が所持していた中国伝来の一幅を、宝永初年に幕臣井上河内守則に贈られ、次いでその子・知剛が譲り受けた。知剛がさらに二男・直次郎に与えたとき自筆で記した由来文は、虫食いだらけだが現存するという。その後、直次郎は高山家の養子となり、高山盛親と名のって一橋徳川家に仕えた。安永年中、この画像を一橋殿(治済)に披露したところ、珍重すべきものとして松本主税峯盛(浜町狩野家・常川峯信の孫という)に命じて、一橋家用の模写を作らせた。すると天明元年た(同7年将軍となる)。この模写が寛政8年に焼失したので、文化5年(1808)に野々山包弘(松本峯盛に絵を学ぶ)に命じて再模写させると、また一橋殿が宰相に進んだ(同年12月、一橋斉敦参議となる)。これより諸侯の依頼が殺到し、百幅を限りに模写を作って希望にこたえることとした。今年(文化7年)模写が百幅に達したと聞いているが、世間にはこれを聞いて崇め、あるいは玩びもののように心得る者もおり、画家を選ばず胡乱に描き出し、あるいはみだりに上梓して人の耳目を偽っている。そのため、ここに正しい来由を記すのだという。原文には尾張徳川家をはじめ、これを求めた諸侯の名が記されており、また幕臣であった南畝が蒐集した記録であるところからみて、少なくとも武家社会で流行したという部分は、ある程度信頼を置いてよさそうである。この文章がいいたいのは、つまぽ苓1653■1722)がもらった。その後、同家中の医者・永井玄悦を経て、谷中徳-305 -
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