鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
315/598

るところ、和合神が庶民の信仰しているようなあいまいな伝来の怪しげなものではなく、由緒正しいありがたい神なのだということなのだろう。長崎から伝来した和合神が、はじめ武家社会で流行して、のちに庶民へひろまったものであるという証言は、その伝来ルートが福禄寿三星図と異なっていることを示す点でおもしろい。実際、この画題が大名家と関連のあったことを示す傍証として、素朴な木版画の遺品ではあるが、老中松平定信の題記をもつものが残っている〔図5〕。上辺に「和合生万福、日進太平銭」と楷書で記し、「文政己卯仲冬源定信Jの署名がある。己卯は文政2年(1819)。先に述べた「万事吉兆之図説」の9年後にあたる。明確に定信の名を記し、しかも「応命謹書」とあるところから、支配者階級の出版物であったものと推定される。蓮花はピンク、両神の衣服は黄色と緑色で彩色されている。これに対してもう一点、構図の類似した木版摺の和合神を紹介する〔図6〕。図像は〔図5〕とほぽ等しいが、こちらはごく一部に朱色を施すのみで、ほぼ墨摺に等しい。上辺にやはり「和合生万福、日進太平銭」と、こちらは行書で記し、「随亭高学書」とサインする。随亭は後述するようにこの原本の所有者。さらに本因には「万事吉兆之図由来」と題した墨摺の由緒が付属しているのが注目され、そしてその内容は、大田南畝の引く「万事吉兆之図説」の前半部分と一致するところが多いのである。そこには、この図像が先年、長崎の唐通事・楊氏(正しくは陽氏)と榊氏(正しくは彰城氏)から幕臣井上河内守に贈られ、その後、永井玄悦を経て谷中正因に渡り、次いで随亭先生が譲り受けて秘蔵している、というところまでの伝来が記されている。ただ、文中に「虫」の文字が四ヵ所刻まれており、そこは文章が続かなくなっている。これは原本の虫食いを表記するもので、「万事吉兆之図説」のいう谷中知剛の由来文を思い起こさせ、両者の原文が同じものであることを暗示する。とすれば、これが中国伝来の図像を伝えるものと推定することができよう。その特徴は、合聖が正面を向き、和聖の方がやや右に体をひねっているところにある。随亭嵩学が高山盛親その人である可能性もあろう。これに対して、両聖とも正面を向く図像の作品群がある。そして意外なことに、筆者が確認した限り、肉筆画の遺品は圧倒的にこのタイプである。たとえば〔図7〕はその図像の典型のひとつだが、落款に「静好女」とあり、女性の描いたものである。この人の素性はわからないけれども、これが男性社会の産物ではなく、夫婦和合や男女和合、ひいては子孫繁栄を願って作られたものであろうことは、容易に推測できる。また、この類型をとる肉筆画には、阿波蜂須賀家のお抱えであった鈴木芙蓉(1752-306 -

元のページ  ../index.html#315

このブックを見る