鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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注(1) 松浦清「関蓑洲筆・篠崎小竹賛『三星図』について」『近世大坂画壇の調査研究』大阪市立博(2) 橋本コレクション蔵や、水戸・祇圏寺蔵など。(4) 杉原た<哉「寿老人と福禄寿」『中華図像遊覧』大修館書店、2000年、145■155頁(5) 服部幸雄「和合神の図像」『さかさまの幽霊』平凡社イメージ・リーデイング叢書、1989年、(8) 『美作の近世絵画』津山郷土博物館、1989年、図4(9) 『真田宝物館収蔵品目録l』松代藩文化施設管理事務所、1998年、19頁■1816)の作品(個人蔵、注7)、津山松平家(岡山県)のお抱え絵師であった狩野(1808■65)の描いた作品(真田宝物館蔵、注9)が含まれており、こちらもやはり如林宗信(1802■71)が描き、藩主・松平斉孝(1788■1838)が題を記した作品(個人蔵、注8)、伊予西条松平家(紀州徳川家の支流、愛媛県)の当主・松平頼学武家社会で流通していたことを推測させる。残念ながら今のところ、二つの和合神の図像がどのように位置づけられるのかは、まだ結論を出せないでいるが、武家杜会で出枇の縁起物として出発したものが、庶民の間にひろまる過程で男女和合の神へと変貌していったことを、これらの遺品から推定しておきたい。むすび江戸時代の道教系民間信仰は、ひどく曖昧なかたちで中国から入ってきているだけに、それと明確に指摘することがむつかしい。結杜があった訳でもなければ、布教にたずさわる道士が日本にいた訳でもない。現世利益という人類普遍の欲望によって、草の根的に江戸の社会にはびこったのである。これを宗教美術と捉えることはできないにせよ、異国趣味のひとつの表われというかたちでは押えられるのではないかと思い、その代表的な二つの両題の伝播についてまとめてみた。168■201頁物館、1998年、25■32頁松浦清「寛政元年の年紀のある谷文晟筆『福禄寿三星図』をめぐってJ『近世大坂画壇の調査研究II』大阪市立博物館、2000年、44■52頁(3) 高橋博巳編『近世儒家文集集成9.、i其園文集』ぺりかん社、1986年(6) 『日本随筆大成•第一期8』吉川弘文館、1975年、228~231頁(7) 『江戸南画の潮流I』飯田市美術博物館、1999年、57頁-307 -

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