鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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⑳ 古代ギリシアの墓碑における運動選手像の成立研究者:名古屋ボストン美術館学芸員田中咲子古代ギリシアにはアルカイック時代以来、墓碑に浮彫りや彩色で故人と思しき人物の姿を表す伝統があった。これらギリシアの人物像墓碑のうち、運動選手の図像は兵士と並んで作例が多く、墓碑に登場する種々のモチーフの中でも重要な位置を占めていたことが窺える。しかし、そもそも故人の一生を記念する墓碑図像として、何故運動選手の姿が選ばれたのであろうか。兵土像であれば容易に納得がいく。都市国家を形成していた当時、都市の防衛を担う兵士は誉れ高い存在であったからである。この小論では、人物像墓碑における運動選手像の成立理由とその意味を解き明かすことを目指したい。1.成立古代ギリシアの墓碑に人物像が表され始めたのは前7世紀半ば過ぎのことである。クレタやパロスなどからその時期の作例が出上している。これらの作例で故人は、男性であれば兵士や長老のような姿で、女性であれば花嫁やよき主婦の姿で表されていた。しかし運動選手像は前7世紀の当時、まだ成立していなかった。運動選手像が墓碑に初めて登場するのは、現存作例から判断すると、前560年頃、ァッテイカ地方においてであるとみられる。アッテイカの墓碑に人物像が表されるようになること自体が前575年頃であるから、運動選手像はアッテイカの墓碑図像の中では古いタイプに属すことになる。図lは最も早い時期の運動選手像の一例である。この人物は全裸で右向きのプロフィールで立ち、左肩にもたせかけた槍投げの槍を左手で押さえている。細長い石版の画面一杯々々に人物像を配置していること、右向きのプロフィール、左足を一歩前へ踏み出したポーズ、そして裸体であることは、現在最古といわれるアッテイカの浮彫り墓碑〔図2〕と共通している(注1)。この作例には裸体の男性がステッキと剣を携えて立つ姿が表されており、これら2点のアトリビュートから、この男性像が市民階級に属す人物として表されていることが分かる。ただし、この男性の裸体が非現実的なものであるのに対し、運動選手像の裸体は現実に即したものである。当時、運動は裸体で行われたのである。この槍と裸体表現の組み合わせから、図1の人物が棺投げをする者であることがわかる。ァッテイカではこの作品以後、アルカイック時代末に人物像墓碑の制作が中断するまでの約60年間(注2)、楡を持つ運動選手を表した墓碑が数多く制作されており、-310 -

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