15点のうち9点が前560-550年頃に属すのである。しかもこの10年間には、運動選手現在までに計7点が発見されている。この時期からは他にも、円盤を持つ者が2点〔図3〕、手を革紐で巻いたボクサーの像が1点知られている。これら競技用具を手にした図以外に、アリュバロスを持つ裸体の人物像もやはり運動選手像の一種として数え入れることが出来る。アリュバロスとは運動の前後に用いるオリーブ油を入れる小瓶であり、運動をする者の必需品であった。このタイプの運動選手像はアッテイカ地方から2点が出土している。更に、アッテイカの北隣に位置するボイオティア地方からも1点このタイプの作例が発見されている。また、運動に直接関わる持物を手にしてはいないが、裸体であり、かつ図2のステッキや剣のように運動選手像とは関係のない持物を持たないものを仮に運動選手像と看倣すならば、さらに4点がアルカイック時代の運動選手墓碑として加わる(そのうち1点はボイオティア出土)。結果として、前575年頃に人物像を表した墓碑の制作がアッテイカで始まってから前500年頃に制作が途絶えるまでのおよそ四分の三枇紀の間にこの地方で作られた運動選手墓碑としては合計16点が現在知られていることになり、この数はこの時期のアッテイカの人物像墓碑全体のうち約35%に上る。アッテイカ以外でこの時期に人物像墓碑の制作が行われていたことが確認できる地域はボイオティアとラコニア、そしてマルマラ海に面したカルケドンであるが、いずれもアッテイカほど盛んな制作活動は認められない。このうちボイオティアの墓碑制作はアッテイカの強い影響の下に行われたことが明らかになっている(注3)。また、ラコニアやカルケドンからは運動選手墓碑が一切発見されていない。従って、ギリシア墓碑における運動選手像の成立を探るにあたり、この小論ではアルカイック時代のアッテイカの作例に考察対象を絞ることにしたい。従来、運動選手墓碑の起源の問題はほとんど議論されてこなかった。その理由は、兵士像が壮年男性を、それに対して運動選手像が青年を表すためのモチーフであると考える傾向が強く(注4)、成立に関して疑問を抱かなかったためであろう。確かに兵士像が押しなべて髭を蓄えた姿であるのに対し、運動選手像はボクサーの図像1点を除き、現存状態から判断できる限りでは全てが無類である。しかし、兵士墓碑と運動選手墓碑を年代順に並べてみると、興味深い事実が浮かび上がってくる。すなわち、アルカイック時代の全ての兵士像が前530-500年頃に属すのに対し、運動選手像は全像以外のモチーフは存在しない。これらのことから、兵士像を壮年男性用の、運動選手像を青年用のモチーフであるとする見解が必ずしも適切ではないことがわかる。この年代分布はもう一つの事実を物語っている。すなわち、運動選手墓碑が成立後-311 -
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