鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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6)。おそらくペイシストラトスの整備の中には体育競技会の開催周期の固定化など前573年)。四大神域以外でも、いくつかのポリスがこの時期にやはり競技祭を導入しすぐに大流行したことである。それゆえ、運動選手墓碑の成立と大流行の背後には何らかの共通した要因があることが考えられる。筆者はその要因として、墓碑に運動選手像が登場する直前に創設された、大パナテナイア祭とその一環で開催されることとなった体育競技会を挙げたい。古文献によると、前566/65年、あるいは前561/60年にアテネで大パナテナイア祭が創始されたという(注5)。それまで、より小規模な形で行われてきたアテナの祭の開催方法を改定し、4年に一度、大祭を差し挟むことになったのである。大祭では体育、吟唱、詩作といった各種の競技会が催されることとなった。これらの競技会には、オリュンピア祭と同様、ギリシア人であれば誰でも参加することが出来、いわばパン・ヘレニックな催しであった。大祭の導入年については前述のように□通りの伝承があるが、この矛盾は現在、次のように説明されている。すなわち、前566/65年に時のアルコン、ヒポクレイデスが大祭を導入し、前561/60年に僭主ペイシストラトスが大祭のあり方を整備したと(注がある。大祭の導入を前561/60年のペイシストラトスに帰する記述は、彼のこれらの業績を重視して、大パナテナイア祭の実質的な創設者として、ヒポクレイデスではなくペイシストラトスの名を挙げているのだろう。実際ペイシストラトスは、大パナテナイア祭の整備の他にも、大事業を次々と実行した。例えば水道の整備やアクロボリス山上の神殿建設などがある。彼のこうした一連の事業の目的は、経済力においても軍事力においても今やギリシア屈指の有カポリスに成長しつつあるアテネを、その力に相応しく整備し、対内的にはアテネ市民の士気と団結力を高め、また対外的には新興アテネの実力を顕示することにあった(注7)。大パナテナイア祭の整備と各種競技会の創設は、それらの目的のためには格好の事業だったにちがいない。中でも運動競技会の開催は、非常に大きな意味を持っていた。前6世紀の前半、オリュンピアでの競技会は大盛況であり、そこでの勝者は全ギリシアに響き渡る大きな名声を獲得することができた。このような盛況ぶりに触発され、四大神域の残りの三箇所でも次々に競技会を創設した(ピュティア前586年、イストミア前582年、ネメアている。当時、このようなパン・ヘレニックな競技祭を開催できることは、ポリスの格の高さの証であり、市民の誇りであった(注8)。競技会では、選手たちは栄誉のために戦った。大パナテナイア祭の運動競技会で各-312 -

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