5、6〕。「パナテナイアのアンフォラ」には、一方の面に武装して槍を構えるアテナ競技の優勝者に与えられる賞品は、女神アテナの聖樹オリーブの樹冠と、独特の形と図柄のアンフォラ(パナテナイアのアンフォラ)に入れられたオリーブオイルだけであった。選手たちは賞品ではなくまさに栄誉のために競い合ったのである。運動競技会を巡る当時のこのような状況を鑑みると、アテネにおける競技会の創設が運動選手墓碑の登場を促したことは容易に理解できよう。運動選手という存在に人々は高い関心を持ち、その姿は当時のギリシア人の目に誉れ高い姿として、そしてとりわけアテネ人の目には、今やギリシア世界を代表するポリスヘと成長した自分たちの誇りの象徴として映ったと考えられる。また、当時の競技会参加者は職業的体育選手ではなかった。確かに得意種目を集中的にトレーニングし、各地を転戦して勝利を重ね、出身ポリスなどから莫大な額の報奨金を得る者もあるにはあったらしい(注9)。しかし一般的には、日頃の生活の中でポリスの体育施設へ通ってトレーニングを積み重ねるアマチュア選手が基本であった。このような日々のトレーニングが可能だったのは、時間的に余裕のある自由市民である。それゆえ運動選手であることは、それなりの社会的地位の高さをも示唆するものだった。運動選手に付随するこれらのイメージを考えると、アテネ市民や外国人が往来する郊外の墓地に、運動選手の姿を表した墓碑を立てて故人を記念することは理に適っていたといえる。ところで、当時運動選手は、墓碑図像に限らず、ギリシア美術全般においてまだ伝統のない主題だった。神話表現が当時の美術の中心主題であったという状況を考えれば、現実の人間である運動選手を表現しようとしなかったことにもそれなりに納得がいく。運動選手表現の最古のものは、前575-570年頃にアッテイカで描かれた陶器画断片である〔図4〕。ここに表されているのは、『イリアス』で詠われているパトロクロスの葬礼競技の場面である(注10)。登場人物たちは皆、神話上の人物であり、戦車競争の選手たちを観客席の人々が応援している様子が描かれている。これに対して、現世の運動選手が初めて表現されたのは、大パナテナイア祭の運動競技会における優勝者に贈られた「パナテナイアのアンフォラ」においてである〔図像「アテナ・プロマコス像」が描かれ、もう一方の面には各競技種目を競う場面が描かれた。優勝者は自分が勝利した種目が描かれたアンフォラを受け取った。大パナテナイア祭での運動競技会の創設に伴って、こうした生身の運動選手を描く伝統がアテネに成立したことも、墓碑図像における運動選手像の登場に大きく関与し-313 -
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