つ。たはずである。確かに、「パナテナイアのアンフォラ」の図像が競技中の様子を描いた、いわゆる動作表現であるのに対し、墓碑図像は静止像であるという違いはある。しかし、表現の差こそあれ、当時の美術に新たな主題が生まれたことの影響は大きかったに違いない。アンフォラの図像も墓碑図像も、それぞれの用途に合致した表現を選んだために、方や動作表現、方や静止像という相違が生じたまでのことであり、両者の表現の違いはここでは大きな問題ではない。アンフォラにおいては、競技者たちの躍動感を表すために動作表現が相応しく、墓碑においては、故人の姿に威厳を与えるために静止像が相応しかったといえよう。元来、アッテイカの墓標の図像は、墓碑にせよクーロス形の墓像にせよ、静止像が伝統としてあった。それゆえに運動選手墓碑では、アンフォラの動作表現を静止像にアレンジしたと考えられる。大パナテナイア祭に導入された運動競技会が当時の墓碑図像に影響を与えたことは、運動選手の表現方法の展開からも窺える。合計16点を数えるアルカイック時代のア、ノテイカの運動選手墓碑のうち、10点が具体的な競技種目に関連する用具を持つ姿であることは既に述べたが、その10点のうち、1点以外は全て前560-550年前後の間に属すのである。別の言い方をすれば、この10年間に属す運動選手墓碑はやはり10点であるが、そのうち競技用具を手にしていない作例は、断片であるために判断のつかない1点のみで、それ以外は全てが競技用具を手にしている。競技者像がこの10年間に際立って集中しているという事実は、つまり、競技会の影響がそれだけ強烈だったことを物語っている。逆に、前550年以降、競技用具を持つ姿は1点しか存在せず、運動選手像といえばアリュバロスなど運動全般に関わるアトリビュートを持つ姿が中心となるのは、競技会創設時の熟狂が冷めてきたことを象徴しているといえるだろ以上、大パナテナイア祭における運動競技会の創設が、墓碑の図像に運動選手像が登場したことの最大の要因であったという筆者の見解の証明を試みた。その根拠をここで要約すると、第一に運動競技会が創設された直後に運動選手墓碑が成立し、大流行を迎えたこと、第二に当時の社会では運動競技会に対する人々の関心がひじょうに商く、特にアテネ市民にとっては運動選手の姿が自らの誇りの象徴でもあったという状況、そして大パナテナイア祭の運動競技会創設に伴い、その優勝者への賞品として、「パナテナイアのアンフォラ」が作られるようになり、そこに初めて神話上の人物ではなく人間の運動選手表現が成立したこと、以上三点にまとめることができる。-314 -
元のページ ../index.html#323