亀井家所蔵資料について早世した亀井竹二郎には子孫はなかったが、亀井至ーの遺族については「描かれた東海道五十三次」展開催の際に連絡をとることができ、その後もいろいろと協力をいただいている。その中で、亀井家に伝わる画帳、画稿類を預かる機会に恵まれたので、その整理、調査をおこなった。それらはかつて美術史家・吉田漱氏によって調査され、ごく一部ではあるが「日本版画史稿(l)」(『岡山大学教育学部研究集録』第51号、1979年)に紹介されたものである。その中の報告は現状とは数量など相異する点が認められるが、現在は、縦40センチ、横50センチ、高さ10センチほどの箱2点に収められ、画帳6点、画稿84点、木版画21点、その他の資料からなる。画帳や個々の作品いずれにも作者の署名はないが、至ーの手もとにあった遺品であることはほぼ確実であり、おそらく多くが至一本人の手による制作であると考えられる。というのも、木版画の中にはく日光名所>20点のうちの19点とそれらの試刷りと考えられるものが含まれ、画稿類には至ーの周辺の人物と考えられる肖像デッサン、葬儀の際は至ーが取り仕切ったと伝えられる師・横山松三郎の法事の光景のデッサンなどが含まれているからである。鉛筆だけ、鉛筆と水彩絵具の併用、あるいは水彩画など素描類がほとんどだが、紙に描いた油彩画も16点含まれる。これら油彩画は風景画が多く、いずれも小品でデッサンの域を出るものではないが、中には、く美人弾琴図>にまでは及ばないものの明性半身像2点もある。画帳も含めると、画面に日付等書き込みのあるものは210点にのぼるが、年記のあるものだけでも明治8年が3点、9年が2点、10年代30点、20年代16点、30年代25点となっている。それらの筆跡は幾分くせがあるが几帳面な人柄をうかがわせるもので、裏面に後から書き入れたと考えられる場合も数点認められる。デッサン類の鉛筆の筆致もこうした文字の筆跡に通じると考えられる。<岸田吟香像>と肖像連作画帳のうちの1冊には鉛筆と水彩による肖像連作38点があり、これらはそれぞれの人物の風貌や特徴を素早く捉えて巧みな点が特筆される。この中に水彩画<岸田吟香像>がある。岸田吟香(1833■1905)は米国人宣教医ヘボンの助手として『和英語林集成』編纂にあたり、また彼に従って目薬「精綺水」を治20年(1887)のく楠る女>(福富太郎コレクション)に通じる描写が認められる女-321 -
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