鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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開発したほか、『東京日日新聞』記者としても活躍し、多方面に才能を発揮した実業家であり、画家・岸田劉生(1891■1929)の父としても知られている。この画面右上に以下の墨書と吟香の落款がある。明治十年三月初一日偶訪玄々堂時亀井至一君(共)山本芳翠君同作此図吟香因題其上(落款「吟香」)これによって、この作品が明治10年(1877)3月1日玄々堂で亀井至ーによって描かれたことが知られ、この資料の中で、唯一、作者名が記録された作品である点がきわめて興味深い。たっぷりとした髭をたくわえたふくよかな人物で、太い眉やしつかりした鼻眼差しの強い二重の目など、その人となりまでが偲ばれる。当時、玄々堂にいた平木政次(1859■1943)が、昭和7年(1932)から19年(1944)まで雑誌『エッチング』に連載した「明治時代(自叙伝)」の中で、玄々堂に関して多くの証言を残している。平木によれば、玄々堂において至ーは別格扱いであったこと、人物を描くのが得意で玄々堂主人夫妻の肖像画を油彩で描き、それが玄々堂に掛けられていたことなどを記録しているが、そのことばを裏づける作例であるといえるだろう。これはまた、先に挙げた吉田氏の論考に紹介されたが、これまで実際に展示される機会がなかった作品である。この他の肖像連作には、「明治十二年」という年記があるもの3点、日付だけのも手にする人物2点が含まれていることから、描かれているのは玄々堂に関係した人物であると推測される。また、手にした新聞のようなものを読んでいるような人物像2点、針仕事をする老女像l点があるが、その他は斜め前方から見た半身像である。絵筆を持つ人物像のひとつは、玄々堂主人・松田緑山の肖像であり、老女像はその母ではないかと考えているが、これらの肖像作品については、今後、比較可能な写真など資料の収集をはかり、より詳しい検証を加えたいと考えている。風景作品について資料の中で大半を占めるのは風景を描いたものである。これらについてはまだ十分な検討を加えたとは言い難い状況であるが、場所や地名についての書き込みから各地で写生したことが窺われる。中には木版画く日光名所>の原画と考えられる水彩画が8点含まれていることが注の4点の書き込みがある。吟香以外に人物についての情報は認められないが、絵筆を-322 -

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