11年(1878)年にかけて制作されたことが作品の書き込みによって知られる。この明治10年(1877)にはまた、第1回内国勧業博覧会に竹二郎作く西京名所図>が出品さ目される。それらは画帳の中にあるので、写生旅行によるものと考えられ、特に画面に「日光山入口」という題が見られる作例には、明治12年(1879)11月8日の日付も認められ、細部まで描き込まれた水彩画である。後に版画を制作することを前提にしてのことと思われるが、彩色も丁寧に施されている。こうした作例は至ーの制作であると断定されるが、他には内容から考えて、弟・竹二郎の作品もあるのではないかと推察される。夕暮れの空を描いたスケッチは、東海道の連作に見られる空や雲の描写を1方彿させるものである。竹二郎のく石版『懐古東海道五十三駅真景』油彩原画>は、明治10年(1877)かられ、この年に彼が京都を訪れたことを裏づける。この京都滞在中のスケッチであろうと思われる作例も認められる。また竹二郎は五姓田義松(1855■1915)と親しく、たびたび行動を共にしていたことが知られるが、おそらくその際のスケッチと考えられる鉛筆の人物像もある。洋装の若い男性像で、先に触れた肖像連作とはまた趣が異なったイラスト風な作例で、風景を描いた水彩画の裏面に描かれていることから、ふたりが連れだって写生旅行をした際のものであると考えている。亀井至ーと竹二郎の位置今回、調査した資料が以前、部分的に紹介されたことは既述したが、今後は、所有者の了承を得たうえで詳細を公表していくことを検討している。これとともに、遺族の聞き取り調査もおこなっておきたい。また、く観古図説>及び『懐古東海道五十三駅真景』といった石版画作例についても、これまで実見してきた作例を中心にまとめて発表することで、新たな情報などが得られることと期待される。亀井至ー・竹二郎兄弟の作例に関して、現存が確認できるもののリスト化およびそれらを実見することがひとつの目的であったが、版画以外に関してはほぽ達成できたと考えている。今後は、版画作品及び今回調査した資料も合わせてレゾネ作成に取り組みたい。記録のうえでは彼らが制作した作品はかなりあったことが知られるが、現存するものはその中でもきわめて少ない。今後、新聞付録や額絵といった石版画作品、あるいは記録に知られる作例などが新たに発見される可能性は消えてはいないが、現存するものだけでもより高く評価されるべきと考えている。-323 -
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