鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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1937年という年がまさにロシア革命20周年にあたっていたことを考えると、ベンジャ1945年の冬、シャガールはニューヨーク州のハイ・フォールズに新しく見つけた家1948年に、《解放》は1952年に完成し、習作と同様、現在はパリの国立近代美術館にこの作品はもともと1937年に一旦仕上げられている。1917年のロシア革命を主題とした絵画が、20年を経たその時期に制作されたことは、いささか唐突で不可解な事実であったのだが、シャガールの上述した手紙における記念日への言及を加味した上で、ミン・ハルシャフが認めるように、この作品は本来、ロシア革命20周年を契機として制作されたということは十分に考えられる(注7)。この手紙の記述はまた、シャガールの母国への強い思いを伝えると同時に、その母国において、当時同胞たちが直面していた困難と危機に、彼がいかに心を砕いていたかを教えてくれる。シャガールが妻ベラとともに、ポルトガルのリスボンから船に乗り、大西洋を越えてニューヨークに到着したのは、1941年6月21日(注8)。この日は、皮肉なことに、ドイツ軍がロシアに侵攻したまさにその日と一致していた。シャガールの故郷の町ヴィテプスクも、その後間もなくドイツ軍により占領されている。手紙の最後の一文は、望んで亡命したとはいえ、ロシアでの厳しい戦況をただ遠くから傍観することしかできないことに、罪の意識さえ感じていることをうかがわせる。に引っ越している。小屋を改装した大きなアトリエには大画面を架けるに十分な壁面があり、《革命》の巨大なキャンヴァスも無理なく広げることができた。既に二つの展覧会に出品されているにも関わらず、その完成度に納得できずにいたのだろう。シャガールはこのキャンヴァスを三つに分割することを決意する(注9)。《革命》の本来の画面の様子は、パリの国立近代美術館に残されている習作〔図1〕から推し量ることができる。中央部分では革命の指導者レーニンが机の上で逆立ちをし、側にはトーラーを抱え、テフィリンとよばれる、ユダヤ教の典礼の際に信者たちが身につける聖句箱を頭に乗せたユダヤ人が憂鬱そうに座っている。戦火を思わせる赤い色が支配的な左側には、銃を携えた人々や、道に倒れる流血した人など、革命に参加する民衆の姿が描かれている。一方、右側は、民家の屋根の上に横たわる恋人たちや、無重力の世界を浮遊する音楽家、イーゼルを前にパレットを持つ画家の姿が描かれ、芸術と愛の力を謳歌するイメージとなっている。シャガールは《革命》の左三分の一から《抵抗》〔図2〕を、中央部分から《復活》〔図3〕、右三分の一からは《解放》〔図4〕を創り出した。《抵抗》、《復活》は収蔵されている。《抵抗》、《復活》、《解放》という順に、戦火が舞う戦いのさなか、戦いでの勝利、平和の時代と、左から右へと流れる時間軸に沿った大まかなテーマを-327 -

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