鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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7.おわりにされた側であり、この礼拝堂との結びつきは明らかである。それに対し、上部のキリスト像はコンスタンティヌス帝時代のオリジナルのラテラーノ大聖堂アプスにおけるキリスト像の写しであるという説(注9)を前提とすると、中央の5聖人はキリスト像とセットでその構図ごと写された可能性も考えられよう。勝利門壁面においては〔図13〕、上部に後期古代のバシリカ式教会堂にしばしば見られる構図とモティーフが見出される。つまり、福音書を手にした福音書記者のシンボルが二手に分かれて描かれ、両端にはキリストの生と死を表象する、ベッレヘムとエルサレムの町が宝石で飾られた城壁に囲まれ、開いた門を正面にして描かれている。下部には、デイオクレティアヌス帝下にサローナで殉教し、この礼拝堂を捧げられることとなった殉教聖人たち、パウリニアヌス、テリウス、アステリウス、アナスタシウス、マウルス、セプティミウス、アンティオキアヌス、ガイアヌスらが並んでいる。図像的に教会堂に見られる構図やモティーフを多用しているのみならず、建築的にも矩形のプランで、勝利門壁面とアプスからなる内陣を東側に配し、小規模ながらバシリカ式の教会堂と類比される点も多い。そこにこの礼拝堂を献じられたダルマティアの聖人たちをはめ込むことで、殉教者礼拝堂であることを表明しているといえよう。洗礼堂本体とこの礼拝堂の関連は図像的には見出しづらい。だが殉教者礼拝棠や巡礼の聖地に接する洗礼堂の例はかなり古く、コンスタンティヌス帝時代から報告されており、それは多くの巡礼者たちが崇敬する聖人の墓の近くで受洗することを選んだことと関係していようとカステルフランキ(注10)が述べるように、殉教者礼拝堂と洗礼堂の組み合わせは、メインとなる建物の違いはあっても7世紀には浸透しており、ラテラーノ洗礼堂は、逆に殉教者礼拝棠を引き寄せた例といえるかもしれない。ラテラーノ洗礼堂と付随する礼拝堂群の機能と装飾の関係において、それぞれの機能に応じた装飾が施され、建造年代も異なることから、体系だった全体の建築的・図像的構想を見出すことは難しい。だが、早い時期に建造された玄関の間は、洗礼堂の入口として洗礼の儀式に直接関わる部分であり、図像にもそれが反映している。教皇ヒラルスによる3礼拝堂は、洗礼の前後や堅信礼に使われたのではないかという説があるように、まだ洗礼の儀式との関連に基づいた図像が展開している。それに対して時代的に差のあるサン・ヴェナンツィオ礼拝堂は、洗礼堂から独立した独自性が顕著で、むしろ教会堂装飾との類似性が強い。それは時代が下り、洗礼の典礼そのものが簡素化される中で、洗礼堂の機能が複雑化し、教会堂との役割の差異を減じていく過-343 -

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