鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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く「弘仁記」(弘仁年間•810-823の資財帳)をみてみると、南円堂安置の僧形六躯の⑳ 興福寺南円堂創建当初の供養僧形像と鎌倉再興の法相六祖像研究者:早稲田大学大学院文学研究科客員研究助手小野佳代研究報告:興福寺南円堂は弘仁四年(813)に藤原北家の冬嗣によって創建された八角円堂である。創建当初の南円堂には本尊の不空羅索観音像と四天王像のほかに六躯の僧形像が安置されていたが、これらの諸像は治承四年(1180)の南都焼討ちの際に惜しくも失われてしまった。その後、文治四年(1188)から翌五年にかけて大仏師康慶ら一門によって再興されたのが今みる南円堂の本尊不空羅索観音像と現中金堂安置の四天王像(注1)、および国宝館安置の法相六祖像である。本研究で注目する法相六祖像は法相宗の高徳六人の肖像彫刻〔図1■ 6〕であり、すなわち法相宗の相師・高僧像として再興されたものであった。にもかかわらず、六躯の中に柄香炉という供養具をもち、片膝または両膝を地につけて詭<供養形の像が含まれている点は注目され、この特徴的像容ゆえに法相六祖像は鎌倉初頭における異色な担師・高僧像と考えられてきた。しかし法相六祖像の持物の柄香炉は従来より南円棠創建当初像の踏襲といわれており、また私見によればその坐勢も当初像に倣ったものであった(注2)。つまり、現存する鎌倉再興の法相六祖像と創建当初像とは、像容という点で強い関連があったといえよう。そこで、興福寺の資財帳である『山階流記』(『興福寺流記』所収)の南円堂条に引ことを、「供養僧形四柱。【合居協】善珠僧正一柱。【居格後在讃文設子。】玄賓禅師像一躯。【居協後在讃文設子井捻】※1】内は割注」と記している(注3)。すなわち弘仁当初の僧形六躯は、「供養僧形」四躯と善珠・玄賓の祖師像二躯として造立されたものだったのである。このように当初像の中に、四躯の供養僧形像が含まれており、鎌倉再興時にそれら四躯の供養形を踏襲すればこそ、現存の法相六祖像の中に、供養の姿が再現されたと解釈できよう。本研究では、鎌倉再興の法相六祖像に特徴的な供養形というポーズが創建当初の供養僧形四躯に起因することを踏まえた上で、当初の供養僧形像に着目し、なぜ祖師像二躯とは別にこのような供養形の像が制作され、南円堂に安置されたかを検討してみたい。そこで、まず供養僧形四躯の持物の柄香炉に注目する。-348 -

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