鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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1.浮世絵の認識いた浮世絵に対して吉川がどのような認識を持っていたか考察することからはじめたい。そして次に吉川の画家としての足跡を見直す必要があるが、残念ながら現存する彼の作品や画歴が不十分なことから今まで因難だった(注8)が、今回の調査で新出作品にも巡り会えたので、これまでに確認できている作品群とあわせて、画家の着眼点としてどのような特徴があるかまとめてみたい。吉川は少年期(明治末期)からすでに浮世絵の蒐集に熱心であったが、当初は純粋に江戸時代の風俗を楽しむ目的や、自身の絵を描くためのモチーフ探しであったに違いない。しかし、京都市立絵画専門学校在学中に同校講師の江馬務が主宰する風俗研究会に参加し、卒業(大正7年)後も松竹合名会社の舞台・映画の時代考証を担当し、浮世絵のコレクション充実に邁進する頃には、浮世絵への認識が変化したように思われる。具体的には、風俗研究会で、関筆・版本を問わず行事風景や髪型・衣装・器物等に関する浮世絵の模写(注9)を担当し、映画の時代考証で、浮世絵や浮世草子の世界を現実のものとして再現しようと試ることで、浮世絵のより細部への観察を深め、描かれた時代そのものに興味を注ぐようになったのである。さらに後の昭和2年には、恩賜京都博物館での夏季講演会(これには見学会が併設され、吉川と野村のコレクションから小袖や櫛籍、浮世絵などが陳列されていた)で、「慶長以降の女子風俗京都女子(浮世絵通じて観たる)」と題し、当時同館顧問であった関保之助(彼の演題は「徳川御殿女中について」)とともに、浮世絵に表われた髪型・衣服の変遷を詳し<述べている。吉川は、画家の観察力をもって浮世絵を比較し、その様式美や表現方法を通して、時代風俗を認識するようになっていったのである。また大正から昭和のはじめにかけて、相次いで出版した刊行物の中でも浮世絵に関して、自身のコレクションの公開に努めている(注10)。例えば大正10年刊行の『近世風俗両集』では自序に「浮世絵は、此の紀に於ける藝術界を支配し一大流派たること疑ひなきも、尚、小説記文随筆等と共に当代風俗史上最好の研究資料として重視せらるるにいたる」と述べ、浮世絵(注11)を鑑賞の対象から風俗研究に欠かせない素材として積極的活用を示唆している。さらに昭和5年に刊行した『浮世絵集』(注12)では、絵画様式の見解はもとより、描かれた装身具や服飾から身分や時代を推測し、風俗的意義を述べ、さらにはその構想上の美的要素などについて詳しく解説を加えている。こうした出版物の中でも、わざわざ東京の出版杜から刊行し、観方にとって浮世絵研究の集大成ともいえるのが、『浮世絵の顔』(昭和4年)である。これは、108カットに及ぶ浮世絵の男女の顔をかなりのクローズアップで掲載し、画家が最も注目-27 -

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