鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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17)。のといえよう。以上のように、柄香炉が‘‘願’'と関係深いことを踏まえて、弘仁四年(813)創建の南円棠に安置された当初の供養僧形四躯について考えてみると、これら四躯は、従来言われてきたように単に本尊を供養賛嘆している比丘たちなのではなく、何かを祈顧、誓願、発願して礼拝している供養僧形ではなかったかと思われてくる。ところで、この「供養僧形」という記載は極めて珍しいもので、南都の大寺の資財帳をみてみると、供養僧形に関する記載は南円堂以外にはみられず、同じ興福寺の他の堂宇や他の寺院にみられる僧形像はことごとく尊像としての羅漢像または祖師像であった(注ここで、供養僧形像と羅漢像との違いを押さえておきたい。この両者の違いを端的に示すものとして、たとえば〔図7〕(注18)をあげてみたい。これは中国・龍門石窟老龍洞の正壁上方につくられた永徽元年(650)洛州浄上寺智偉造の阿弥陀像寵で、とくに初唐以降に多くみられる五尊形式の翁である。ここには4躯の僧形があらわされているが、このうち本尊の両脇に立つ阿難、迦葉とみられる二羅漢がいわゆる尊像としての僧形像であり、これら口羅漢は本尊同様に礼拝対象となるものであろう。一方、翁基部中央の題記の両側で、柄香炉とみられる仏具を持って脆く二比丘がまさに本尊を供養している、いわゆる供養僧形であろう(注19)。同じ僧形であっても立像形式にするか、詭<供養形とするかというのは意味がまったく異なる点に注意したい。というのも、脆くことは、仏教の発祥地インドでは相手に恭敬の意をあらわす時の作法であったから(注20)、供養の際に本尊の前で脆くという行為は、たとえ一時的であれ、その場面の中に‘敬うもの'と‘敬われるもの’という尊卑の関係、または上下の関係を生み出すことになるのである。もし、尊像としてあらわすのであれば、立像形式かもしくは祖師の坐法にふさわしい結珈訣坐にすればよいのである(注21)。ではなぜ当初の南円堂に、片膝または両膝を屈して脆く姿の供養僧形像が安置されたのであろうか。このような供養僧形像をわざわざ制作して、南円堂に安置したとなれば、そこには特別な意味があったと考えざるを得ない(注22)。そこで、次に南円堂の性格を踏まえて供養僧形について検討してみたい。ニ南円堂の性格南円堂は弘仁四年(813)に藤原北家の冬嗣が父・円麻呂の遺願を果たすために建立した堂宇といわれており、南円堂建立に至る複雑な事情・経緯についてはすでに毛利久氏ら先学によって明らかにされている(注23)。それを要約すると次のようにな-352 -

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