ろう。すなわち、奈良時代の興福寺講堂には、天平十八年(746)に北家の祖・房前とその夫人牟漏女王のために、子の藤原夫人と真楯が造立した不空鵜索観音像(のちの南円堂本尊)が安置されていたが、延暦十年(791)に桓武天皇の皇后乙牟漏の一周忌に造立された阿弥陀三尊像が同じ講堂内に本尊として迎えられると、これまで本尊として安置されていた北家由緒の不空羅索観音像は結果的に本尊の座を追われる形となった。この状況を目の当たりにした北家の内麻呂は自家の衰運をみて、その再興を志し、安置場所を奪われた不空羅索観音像のために新たな一堂宇を建立することを願ったものの、果たせぬまま亡くなってしまった。この内麻呂の遺志を継いで南円堂を完成に導き、講堂から不空羅索観音像を迎えて南円堂本尊としたのが、息子の冬嗣だったのである。さらに、冬嗣が南円堂に八角円堂という建築プランを採用した理由としては、八角円堂が塔の一種であり、故人を記念したり、死者を供養し追善を祈る性格をもっていることと関係していると思われる(注24)。つまり冬嗣は、従来いわれるように父・内麻呂の遺願を果たすという目的のためだけでなく、父・内麻呂を供養し、冥福を祈願するという目的のために南円堂を建立したと考えられるのである。南円堂建立後、弘仁八年(817)になると、内麻呂の忌日の十月六日を結願日とした法会、すなわち法華会が南円堂で開催されるようになり、さらに同じ弘仁の時代に供養僧形四躯が南円堂に安置されたのであった。しかもこれら四躯は、祈願、誓願、発顧と関係の深い柄香炉を持って、まさに供養する時の脆く姿勢をとっていたのである。果たして、これら四躯は内麻呂の供養堂で一体何を祈願、誓願、発願しているとみるのがふさわしいであろうか。以上の南円堂の性格を合わせ考えると、これら四躯の供養僧形は、不空羅索観音像のための新たな一堂宇の建立を切に願いながらも、果たせずに亡くなった藤原内麻呂の霊を供養し、死後の幸福を祈願するために柄香炉を持ち、脆いていると思えてならない。つまり、創建当初の南円堂に安置された、他に類例のない供養僧形像の造立目的は、内麻呂の冥福を祈願し、供養するというところにあったのではないだろうか。このような供養僧形を造立し、南円堂に安置することを意図した人物としては、南円堂の建立者であり、また内麻呂の息子である冬嗣、もしくは冬嗣周辺の人物とみて大過あるまい。さて、南円堂の供養僧形四躯のその後であるが、嘉承元年(1106)の『七大寺日記』をみてみると、各像にそれぞれ行賀、喜操、常騰、慎容という名前が付けられ、しかも「六祖師ノ像」と呼ばれているのは注目される(注25)。つまり、十二世紀初頭には、すでに供養僧形四躯は善珠や玄賓と同様に祖師像として扱われるようになってい-353 -
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