鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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(17) 興福寺の『山階流記』によると、中金堂院、北円堂、東金堂、五重塔、檜皮葺双堂、西金棠、食堂院、檜皮葺後棠、南円棠に僧形像が安置されていたことが知られるが、これらのうち僧形を「供養僧形」と記すのは南円堂のみで、その他は「羅漢Jと記されている。わずかに「聖僧J、「羅眠羅」、「淵洲(大師)」「善珠」「玄賓」という記載がみられる。ともかくも、「供養僧形」の他は、ことごとく尊像としての羅漢像または祖師像であったとえいよう。大安寺や西大寺、法隆寺などの資財帳をみても、僧形は「羅漢」または「聖僧」と記されている。いが、窟門通道(雨道)などにもあらわされる。いずれにせよ、脆く姿の供養僧形を五尊像と同様に、本尊の脇侍としてあらわすことはない。(20) 『釈門帰敬儀j巻下(『大正蔵J45巻、862c)には、「経中多明胡脆互脆長脆。斯蚊夫竺敬儀屈膝桂地之相也。」とあり、「大唐西域記』巻第2(『大正蔵』51巻、877c)には、九種類の致敬方式の中で「屈膝」「長脆」などをあげている。(21) 創建当初の南円堂に供養僧形四躯とともに安置された善珠・玄賓の祖師像二躯は結珈訣坐であったと考えられる。前掲注(2)拙稿参照。(22) 近年、瀬谷貴之氏は、南円堂当初の「供養僧形」四躯が、本来は興福寺講堂の本尊不空謂索観音像の脇侍像として造立されたもので、のちに不空羅索観音像とともに創建の南円堂に移座された可能性を呈示している(「興福寺南円棠法相六祖像をめぐる諸問題ー像名比定とその創意を中心に一」『美術史学』22、平成14年)。しかし、以下の理由から氏の説には同意しがたい。というのも、僧形を本尊の脇侍像として配する場合、本文中でも述べたように、尊像としもの寵漢像にあらわすのが通例であり、しかもその多くは立像形式とされる。同じ興福寺の中金堂や五重塔の弥勒仏の脇に配された僧形四躯もまた、「羅漢」像(『山階流記』)であった。それゆえ、柄香炉をもって脆く「供養僧形」像が本尊の脇侍像として造立されたとは考えにくい。また同氏は、「供養僧形」四躯が柄香炉を執ることについて、「不空羅索観音関係の経典で「沈水香」「妙香」「香王」などを焚く供養を数多く説くこと、また特に壇の「四門」「四角」で「諸妙香」を焚くことや、「香燻」を「四具」安置して供養することを説くことと関連するとみられる」と述べている。しかし、香を焚く供養の記述は、不空羅索観音関係の経典に限らず、密教関係の経典に多く記されるもので、また壇の「四門」「四角」に置くのは香炉だけではない。たとえば[不空鵜索神変真言経』巻第八には、供養の際に香炉四具の他に、香瓶四口、酷瓶四口、蜜瓶四口、乳瓶四口、酪瓶四□などを安置することを説いているのである。おそらく、同氏が柄香炉をもって脆く「供養僧形」四駆に関連するとされた壇の「四門」「四角Jの香炉とは、一般に密教寺院の壇にみるような四方に置かれた四つの香炉などを想像すべきなのではないだろうか。そもそも、『山階流記』講堂条に、四躯の僧形像に関する記述はないのであり、「供養僧形」四躯が講堂から移座された事実は確認できない。これら「供養僧形」四躯に関する記述が『山階流記』南円堂条に初めて登場したことを重視するならば、従来考えられてきたように、「供養僧形」像は南円堂で新造されたとみるべきではなかろうか。(23) 毛利久「興福寺の伽藍の成立と造像」(『仏教芸術』40、昭和34年)、麻木脩平「興福寺南円堂の創建当初本榊像と鎌倉再興像」(『仏教芸術』160、昭和60年)(24) 小野佳代「興福寺南円堂の性格ついて一八角円堂の起源をふまえて一」(『美術史研究』39、平成13年)(25) 『七大寺日記」興福寺南円堂条(『校刊美術史料寺院篇上巻』所収)(18) 『中国石窟龍門石窟二』(平凡杜、昭和63年)(19) 供養僧形のあらわされる位置は、〔図7〕にあげたように本尊(の台座)の下であることが多-355 -

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