—-360 -作例も確認できるようになる。ただし、唐代でも、袈裟の端を吊る形式は全体としては少なく、通肩と偏担右肩、褒衣博帯式が一般的な着衣法であった。このように現存する作例を観察すると、袈裟の端を吊り上げて左腹部で紐を結ぶという形式の着衣法は、圧倒的に山東地域で制作された如来像に多く見られ、その初見は隋代である。こうした着衣法の源流がどこにあるのか、非常に興味深いことである。ところが残念なことに三世紀から六世紀におけるインド・西域の作例数に限りがあること、側面や背面を撮った写真が少ないために、現在までのところ実作品の中で袈裟を吊る表現を見つけることはできない。しかしながら、この時期のインドの戒律を伝える律部経典の中には、袈裟を吊るという記述がいくつか確認できる。これらは漢訳された経典ではあるが、当時のインド仏教の実情を伝える貴重な文献である。たとえば、眺秦の仏陀耶舎等によって漢訳された『四分律』巻四十は、袈裟の端を吊ることについて次のように記している(注4)。爾時舎利弗入白衣舎。患風吹割歓衣堕肩。諸比丘曰仏。仏言。聴肩頭安鉤紐。すなわち、舎利弗が白衣舎に入った時、とつぜん風が吹いて肩から衣が落ちてしまった。諸々の比丘たちがそのことを仏に言ったところ、仏は肩の付近に鉤と紐をつけるように言ったと書かれている。また、劉宋の仏陀什等によって漢訳された『五分律』巻二六には、次のように記されている(注5)。有諸比丘著軽衣入緊落。風吹露形。諸女人笑羞恥。仏言。聴作衣紐鉤鉤紐之。応用銅鉄牙角竹木作鉤除漆樹。比丘が軽装で緊落に入ったところ、風が吹いて裸になってしまった。それを見た女性たちが恥ずかしそうに笑った。そこで仏が紐と鉤をつけるように言ったのである。また鉤をつくる材料には銅、鉄、牙、角、竹、木を用い、漆を使わないように言ったと記載されている。唐の義浄が著した『南海帰寄内法伝』巻二には、次のように記されている(注6)。当中以錐穿為小孔。用安衣詢。其絢或條或吊。嚢細如杉絢相似。可長両指。結作同心。すなわち、衣の中に錐を使って小さな孔をあけ、そこに拘をつけて、その拘で条あるいは吊をつくる。羅細は杉の拘によく似ている。その長さは両指ほどあり、同心に結ぶとある。なお本報告では、これらの記述から袈裟の端を鉤紐で吊り上げる着衣法を鉤紐式とよぶことにする。
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