なっている(注10)。ただし通常の褒衣博帯式のように、左肩から回された袈裟を右肩に垂らして衣端を左腕にかける形式とは異なり、右肩から垂下した袈裟は右膝にかけられている。南北朝時代、とりわけ南朝で創始されたとされる褒衣博帯式は、北魏の洛陽遷都以降従来の着衣法である通肩や偏担右肩とともに中国各地で多く確認される着衣法である。その一方で、衣端に紐をつけ左肩から吊るす形式の着衣法は、南北朝期の仏教造像には見られない表現であった。袈裟の端を吊り上げる如来像と吊り上げない如来像が、同じ塔内に安置されるのは、仏像の着衣史を考える上で見逃すことのできない事実である。三神通寺四門塔内の四仏の追像背景四門塔内に造られている四仏のうち、西方に安置されている如来像が鉤紐式袈裟をとっていないことは先に指摘した。では、この鉤紐式でない如来像の制作時期はいつ頃であろうか。同じ山東地域内で制作された如来像を参考にして考察を進めたい。神通寺の所在する山東地域には、南北朝期から隋・唐代までに造営された石窟造像や出土した石仏・金銅仏が数多く残されているが、報告者は青1'1'1市に所在する駐山石窟第三窟の本尊に着目したい。馳山石窟第三窟は、馳山石窟のなかでも最大規模で最初期の窟である。第三窟本尊の如来坐像は、像高が5メートル、両脇に菩薩立像を配置した三尊形式で表現されている。本像の台座には、「大像主青J‘卜1総管柱国平桑王」という銘文が残されている。青什Iの総管は、『周書』巻六ならびに『隋書』巻四七によれば北周・建徳六年(577)から隋・開皇ー四年(594)に置かれた職であるので(注11)、この間に造られた像であることが分る。次にこの像の特徴を見てみたい。本像は、肉髯が低く、螺髪は表さない。面相は方円形で張りがある。顔を見ると上瞼下瞼とも緩やかな弧を描いて細く、鼻は低い。口は小さめで、顎をやや膨らまして表現しているのは特徴的である。頚は太く円筒形、体躯は量感があるが肩から腹部まで凹凸のないつくりである。衣文線は浅い彫りで、体の肉付きによる起伏を想起させない平行線が多い。着衣は、いわゆる褒衣博帯式で胸前に結び紐を表している。この馳山石窟第三窟本尊のつくりは、四門塔の西方に安置されている如来像と非常に類似する点が多い。特に、上瞼下瞼ともに緩やかな弧を描き、額を膨らませるように表現するなどの面部のつくり、衣文線などが浅い彫りで身体の起伏を感じさせない表現、褒衣博帯式の着衣法などを共通点として指摘できる。こうした様式的な面を勘案すると、四門塔の西方に安置される如来坐像は、馳山石-362 -
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