鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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窟第三窟本尊の制作時期と同じ頃、すなわち北周末から隋初の間に制作されたと考えてもよい。つぎに、鉤紐式である三体の制作時期であるが、山東地域の中で同じ表現のある他の作例としては、先に指摘したように雲門山石窟第一窟本尊や舵山石窟第二窟などの隋代の制作になる如来像があげられる。たとえば雲門山石窟第一窟の如来坐像であるが、着衣面での特徴は、腹前で衣を結ぶ紐を表す形式、いわゆる褒衣博帯式をとりつつ、袈裟の端を左肩で吊り上げていることである〔図5〕。こうした褒衣博帯式と鉤紐式が混在する表現は、仏像の着衣法の中では珍しい作例である。雲門山石窟第一窟の本像と四門塔の鉤紐式表現の三仏を比べると、方円形の面部、額が狭く小ぶりの鼻、口が小さく顎がやや膨らむ点、なで肩で胸の厚みがない点、なだらかな衣文線、そして何より袈裟を吊り上げている点が類似する。四門塔の三方の如来像は、従来述べられてきた通り隋代の制作と考えて異論はない。ところで先に指摘した雲門山石窟第一窟本尊の着衣法であるが、褒衣博帯式と鉤紐式の混在は、四門塔の造像背景を投影する現象であると思うのである。つまり、鉤紐式袈裟が伝来した際、これまでの如来像の着衣法の一つであった褒衣博帯式の中に、新たな着衣法である袈裟を吊るという表現を混在させてしまったのが雲門山石窟の作例であると推測されるのである。一方神通寺四門塔の四仏は、一つの像に二つの着衣法を混在させることなく分けて表現した結果、同じ塔内に=つの着衣法の如来像が安置されていると推測できるのである。つまり四門塔内に安置される四体の如来坐像のうち、一体が褒衣博帯式で他の三体が鉤紐式であるのは、新たな着衣法が導入された過渡期的な現象として捉えるべきなのであろう。四山東地域における特殊性これまで述べたように鉤紐式袈裟を表現する如来像は、山東地域に多いことがわかった。では、その分布が山東地域にかたよるという現象は、一体どのような事情があったのか考えてみたい。かつて報岩者は、南北朝期における菩薩像の胸飾表現の変遷について論じたことがある(注12)。その中で、南北朝期にインドや東南アジアの意匠が新たに中国に受容される際、中国の東側と西側では較差が生じていたと推論した。北魏が東西に分裂して東魏・北斉と西魏・北周に対峙した時代、東魏と西魏では東西差が少ないが、北斉-363 -

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