鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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と北周では明らかに差が表れていた。それは東側の北斉が西側の北周よりも、先進的であるということであった。その現象は統一王朝である隋代にも見られ、同じ隋でも旧北斉地域は旧北周地域の意匠よりも進んでいると指摘したのである。ここでとりあげた鉤紐式の表現を見ても、実は敦埋石窟など旧北周地域では隋代の作例には現在のところ確認することができない。唐代になると、敦煽石窟第ニ一七窟東壁門上に描かれている如来像、第四四四窟南壁の如来像などが袈裟を吊っている。ただ敦燻の場合には、袈裟を吊るという表現は造像総数の割合に比してかなり少ないので馴染みが薄かった可能性は否めない。こうして検討すると、鉤紐式の場合も東西差が確認できる。その事情は、先に指摘した通り、伝来経路の特殊性によるもので、山東地域は特別な経路をもった地域だったので西方的な影響が他の地域よりも早く伝来したと推測できないだろうか。報告者は、その一因として北斉地域の特殊性をあげ、北斉の南朝文化を摂取しようとする政策が大きな要因であることを指摘した。そのことについては宮崎市定氏が「北斉は中国の伝統を継承して、その尖端をゆく南朝の貴族制に追従しようと努力した。然るに北周においては、漢魏以降の中国の動向を以て、派生的、抹消的なものとして軽視し中国文化の本源に立ち返ろうとする」と述べているように、南朝文化を重視するか軽視するかで文化情勢が変わってくると考えられるのである(注13)。このように山東を含む北斉地域は、北周地域とは異なる外来文化の伝播経路があったと考えられる。その経路としては、インドや東南アジア地域から、海路を利用して山東半島に達する経路、あるいは南朝を経由して山東半島に伝来する経路がある(注14)。また西方の僧侶が中国に来る際の経路の一つとして、船で海を渡り山東半島に上陸するのは東晋時代の仏駄践陀からおこなわれており(注15)、その後多くの僧侶が同じような経路で中国に渡ってきている事情を考え合わせても、山東地域には西方的な要素を先進的に受け容れる士壌があったと理解できる(注16)。なお、神通寺の国際性を示す事例が『続高僧伝』巻二五釈僧意伝に、次のように記されている(注17)。元魏中。住太山朗公谷山寺。緊徒教授。迄於暮歯精誠不倦寺有商麗像。相国像。胡国像。女国像。呉国像。毘裔像。岱京像。如此七像並是金銅。倶陳寺堂。堂門常開。而鳥狩無敢入者。至今猶爾。すなわち、北魏の中頃に泰山の朗公谷山寺に住んでいた釈僧意が、衆生を集めて日夜老いるまで説教していた。その寺の中には、高麗像、相国像、胡国像、女国像、呉国像、毘裔像、岱京像が安置されていた。その七体の像はすべて金銅でできており、-364 -

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