鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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(1) 岡田健・石松日奈子「中国南北朝時代の如来像着衣の研究」上・下(『芙術研究』三五六•三吉村怜「仏像の着衣《僧祇支》と〈偏杉》について」(『南都仏教』八ー2002年)(2) 袈裟史に関しては次の論考が詳しい。注これらが安置されている堂には鳥獣が進入することがなく、今もなおそれが続いている、と記される。つまり神通寺には、朝鮮半島、西域などから伝来した国際色豊かな仏像が安置されていたのである。また山東地域に西方的な影響、すなわちインド・東南アジアからの文化伝播が他の地域よりも頻繁にあったのではないかという推論を裏付ける事実に、小論でとりあげた四門塔の塔の形式も考慮に入れる必要があろう。先述のように、相輪部のかたちが法箇印塔形を呈しているのは中国国内では現状では珍しい作例である。特に杉山信三氏が指摘するように、中国で法筐印塔の祖形を求めると、図像としては雲岡石窟第一四窟西壁に表された仏塔などがあげられ、実際に建築された作例としては四門塔にゆきつくという(注18)。また建築学的な立場から村田治郎氏は、塔の形式を分類した上で四門塔の相輪部を変形印度塔に近いと指摘している(注19)。法筐印塔は、その特異な形状がインドの卒塔婆の影響下で成立したと考えられており、まさしく西方的な影響を証明するものなのである。こうした特徴的な塔が存在することも、山東地域の特殊性を示す証となろう。おわりに本報告では、神通寺四門塔内に安置される四仏の着衣法を中心に、如来像の左肩部における衣端処理について考察を試みた。南北朝期までの中固では、如来像の着衣法は通肩、偏担右肩、褒衣博帯式が主流であったが、隋代になり袈裟の端を吊る形式の如来像が見られるようになる。その作例は山東地域で多く確認でき、報告者は山東地域で初めて吊る袈裟の表現がおこなわれたのではないかと推測した。それが唐代以降になると中国各地で散見されるようになる。また、報告者は旧北斉地域と旧北周地域を比較した際に、山東を含む旧北斉地域の方が先端的な表現が多いと指摘したことがある(注20)。袈裟の端を吊るという着衣法もまた、まず旧北斉地域の隋から確認される。四門塔内に袈裟を吊る如来像と、吊らない如来像が混在するのは、先述した通り新たな着衣法が中国、特に山東地域に伝来した過渡期的な現象と推測できるのである。互七1993年)-365 -

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