鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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(3) 熊田由芙子「東大寺南大門仁王像の図像と造形ー運慶と宋画ー」(『南都仏教J五五1986年)(4) 『大正蔵』巻ニニ855頁c(8) 済南市博物館編『四門塔与神通寺』文物出版社1981年(9) 杉山信三「宝筐印塔の形式について」(『史跡と美術J七三1936年)久馬慧忠『袈裟の研究』大法輪閣1967年平川彰「三衣について」(『佐藤博士古稀記念仏教思想論叢』山喜書房1972年)井筒雅風『法衣史』雄山閣出版1974年熊田氏は、隋から唐代にかけて鉤紐が中国に入ってきたと指摘している。(5) 「大正蔵』巻二二174頁b(6) 『大正蔵』巻互四215頁a(7)関野貞『中国文化史蹟』七解説法蔵館1976年(再版)山東省文物管理処「論歴城四門塔的年代兼荊三林先生」(『文物参考資料』1956年三期)荊三林・張鶴雲「神通寺史迩初歩調査記略」(『文物参考資料』1956年一〇期)村田治郎『支那の仏塔』富山房1940年(10) 小杉一雄氏は晃服式、吉村怜氏は紳帯式と名づけている。小杉一雄「裳懸座考J(「仏教芸術』五1949年)吉村怜「止利様式南朝起源論」(「国華』一ーニー1989年)(11) 『周書』巻六(中華書局版100頁)『隋書』巻四七(中華書局版1271頁)(12) 拙稿「中国南北朝期における菩薩像の胸飾について」(『美術史研究』三七1999年)(13) 宮崎市定[九品官人法の研究』同朋舎1977年吉村怜「成都万仏寺址出土仏像と建康仏教一梁中大通元年銘のインド式仏像について一」(『仏教芸術』二四01998年)(14) 宿白「五・六世紀、北中国における人物造形上の変化と諸問題」(『中国国宝展』東京国立博物i馬承釣『支那南洋交通史』大東出版社1940年(15) 『大正蔵』巻五0335頁a(16) 前掲注(12)拙稿(17) 『大正蔵』巻五0647頁a(18) 前掲注(9)杉山氏は、四門塔の屋蓋は伏鉢に相当し、その下の部分は基壇とする。また相輪の四隅につけられた隅飾は返花に相当する表現と指摘する。(19) 前掲注(9)村田論文(20) 前掲注(12)拙稿館2000年)-366 -

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