鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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Bertelli、C.Cieri Via等が優れた研究を出しており(注10)、Bertelliによると、君主のの崇拝が様々な形で頴示されていた〔図5〕(ピエール・パテル〈ヴェルサイユ宮殿と庭園の鳥鰍図》、油彩、キャンヴァス、115Xl6lcm、ヴェルサイユ宮殿、M.V.765) 〔図6〕(ヴェルサイユ宮殿「王のアパルトマン」二階の平面プラン、主任建築家マンサール設計、1716年、パリ出版)。ゴンザーガ家宮廷も同様に、15世紀頃より「太陽のインプレーザ」が君主の自己礼賛エンブレムとして使用されていたことがG.MalacareneとR.Signorini等の研究から知られている(注8)。とりわけ、ルドヴィーコニ批(1412-78)の治戦で太陽図像は度々援用され、著名な宮廷画家マンテーニャが制作したルドヴィーコの寝室、「絵画の間」(通称「婚礼の間」)の中にも太陽のインプレーザが装飾されていた。ルドヴィーコは1412年6月5日の日曜日、つまり太陽の日の生まれゆえに、占星術師GiovanniCattaniから“太陽の生まれの者chie di del Sole"と呼ばれ、“日曜日に誕生した者は太陽の生まれゆえに最も完璧でありLodi de la dominicha si e lo piu perfeto”、“世界中でも最も優れたキリスト教徒lesue nativitate si sono li miliori ceristiany del mondo"となると賛辞を受けていた(注9)。ヴェスパシアーノもまたこの本家の権力表象の伝統に熟知していたことは疑いなく、事実、パラッツォ・ドゥカーレニ階には「太陽の小部屋」Camerinodel Sole (piccolo atrio)と呼ばれる玄関室が設けられ、その小部屋の日の出の方角には燦然と輝く太陽の図像が描かれていた〔図7〕(〈太陽》、「太陽の小部屋」ルネッタ、パラッツォ・ドゥカーレニ階、サッビオネータ)。さらに、「太陽の小部屋」から続く「祖先の回廊」Galleriadegli Antenatiには、太陽神アポロが実際の東から西の方角に沿って馬車を駆る図像が描かれており、その下の壁面には、歴代ゴンザーガ家君主の漆喰胸像が取り巻いていた。その胸像のなかには、先に述べたルドヴィーコニ世とヴェスパシアーノの胸像も含まれていた〔図8〕(《太陽神アポロ》、「祖先の回廊」天井画、パラッツォ・ドゥカーレニ階、サッビオネータ)。中世から近世にかけての太陽崇拝と王権表象の関係性をめぐって、既にSergio身体が毎朝甦る「不滅の太陽JSol invivtus、キリストの復活を暗示していたこと、君主の起床と就寝という生命リズムと太陽の運行である日の出と日没との間に象徴的な同一視があったこと、ゆえに君主の身体が日々再生し、永遠に続く王朝支配のシンボルとなったことなどを指摘している(注11)。ここで、パラッツォ・ドゥカーレの平面プラン〔図9〕(サッビオネータのパラッツォ・ドゥカーレ平面プラン)を見ると、「祖先の回廊」(番号15)と「太陽の小部屋」(番号13)は共に宮殿内の東西中心軸に沿って配置されており、「祖先の回廊」の直ぐ-371 -

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