本研究の最終的な成果は、論文「自己イメージの弁証法—松本竣介《画家の像》、⑰ 松本竣介研究―《画家の像》、《立てる像》、《五人》《三人》の解読ー一・研究者:愛知県美術館主任学芸員村上博哉《立てる像》、《五人》《三人》の解読(上・下)」として『美術研究』(東京文化財研究所)に発表される予定である。この報告書には、同論文の要旨を記すこととしたい。松本竣介(1912-1948)は日本近代美術史において、かなり特殊な扱いを受けてきた画家である。彼が『みづゑ』1941年4月号に寄稿した論文「生きてゐる画家」は、戦後の1948年に彼が他界するとまもなく、太平洋戦争前夜におけるファシズムヘの果敢な抗議として再認識された。また、1941年と42年の二科展にそれぞれ発表された《画家の像》〔図1〕と《立てる像》〔図2〕は、いずれも100号の大画面に作者の堂々たる全身像が描かれていることから、やはり彼の没後、抵抗の意志を込めた「反ファシズムの絵画」として広く知られるようになった。こうして本人の死とともに生まれた「抵抗の画家」の神話は、以後半世紀にわたって語り継がれている。もちろん、その間《画家の像》と《立てる像》は多くの批評家・研究者によって論じられ、一面的な解釈への疑問や異論も提出されてきたが、「反ファシズムの絵画」という見方に替わるような説得力のある解釈は、これまで示されていない。一方、1943年の二科展の出品作《三人》〔図3〕と、同年の《五人》〔図4〕は、やはりそれぞれ100号の大作であり、また〈五人》には松本の全身像が描かれているにもかかわらず、言及されること自体が少なく、戦時下の家族像と見なされるにとどまっている。しかし、そもそも全身の自画像という形式が美術の歴史の中では比較的珍しいことを考えるならば、自己の全身像を中心モティーフとする大作を3年続けて描いたこと自体、いかなる動機があったのかが問題にされてしかるべきである。しかも、1943年の二科展には結果的に《三人》だけが出品されたが、後述するように、松本は《五人》と〈三人》を両方とも出品するつもりで制作していたのだった。彼にとって最も重要な発表の場であった二科展に、自己の全身像を描いた作品を3年続けて発表しようとしたことには、何か特別な意図があったと考えてよいはずである。この研究の趣旨は、これまで注目のされ方に大きな差のあった上記4枚の絵を、明1 研究の目的-377 -
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