鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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1998-99年の「没後50年松本竣介展Jにあたり、筆者が所属する愛知県美術館では、確な構想のもとに描かれた、ひとつの完結した作品群として解読することである。4枚のうち最後に描かれた《五人》と《三人》を合わせて中央に並べ、その左右に《画家の像》と《立てる像》を置くという展示を試みた〔図5Jo 4枚の絵がまさにこのような関係にあることを証明するのが、この研究の目的である。中央の《万人》と《三人》は2枚組で1点の作品であり、従って4枚の絵は「3点」の作品である。これら3点は、弁証法的思考によって構想された「三部作」である。つまり、《画家の像》を「正」とすれば《立てる像》は「反」であり、両者は対立するが、その対立は「合」である《五人》《三人》によって解消する。これまで注目されていなかった《五人》《三人》が、実は三部作のクライマックスなのである。「生きてゐる画家」が社会に向けた松本の意思表明であるように、《画家の像》と《立てる像》は絵画による社会的な発言と見なされてきた。しかし、この研究では、松本の制作の動機が、「抵抗の画家」神話とは何の関係もない、全く個人的なものであったことを明らかにする。この三部作の主題は「自己」である。松本は自己の全身像を3年にわたって3点の作品に描くことを通じて、自分の内面の根本的な問題に向き合い、それを彼自身の力で解決することに取り組んだのだった。なお、この三部作を読み解くには、各作品のデイテールの観察とともに、準備デッサンを調査して構想を探ることが重要である。また、西洋の美術に関する松本の幅広い関心を反映して、古代から近代までの西洋美術の様々な作品から構図やモティーフの引用が行われていることにも注目しなくてはならない。《画家の像》、《立てる像》、《五人》《三人》の三部作について、松本自身の直接的な証言は一切残されていない。だが、制作の動機は、1941年初めの「生きてゐる画家」執筆よりもさらに遡って、1940年2月に書かれた「アバンギャルドの尻尾」、「黒い花」という二つの文章と、同じ時期に始まる画風の転換に注目することにより、推定が可能である(注1)。ただし、本来は詳しい説明が必要であるが、ここには概略を示す。松本が「アバンギャルドの尻尾」と「黒い花」を執筆した背景には、山下清の出現があった。障害児施設に暮らして貼り絵を制作する当時17歳の清少年は、1939年11月の『特異児童作品集」刊行と翌月の展覧会によって一躍脚光を浴びた。とりわけ松本が敏感に反応したのは、安井曽太郎、梅原龍三郎、藤島武二らが清少年を「天オ」とさえ言って称賛した『みづゑ』1940年2月号の「特異児童の作品」という座談会記事2 「三部作」制作の動機-378 -

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