である。松本はこれに対して「アバンギャルドの尻尾Jで清少年を激しい攻撃的な論調で否定する一方、寓意的な散文「黒い花」では「特異児童の作品」座談会を椰楡しながら、画壇や世間に認められない自分自身への悲観的な思いを吐露する。これら=つの文章に表れた感情の大きな落差は、清少年の出現によって、松本の内面にかなりの動揺が生じたことを物語っている。清少年に対する松本の否定発言は、翌年の「生きてゐる画家」にも唐突に表れる。このように彼が清少年への批判・攻撃をあえて公然と繰り返したことは、単に彼自身が評価されないことへの苛立ちだけでは説明できない。その裏には松本自身の、少年時代の体験に由来する内面の問題があったと筆者は推測する。彼は12歳の時に流行性脳脊髄膜炎にかかり、そのために聴覚を失ったが、彼の父の回想によれば、発病時にはむしろ知能への影響が恐れられたのである(注2)。実際には松本の優れた知性に影響が及ぶことはなかったが、この体験はトラウマとして心の奥に残ったであろう。彼は知能喪失の危機からかろうじて逃れたことに深い恐怖を覚え、それ以来、その恐怖を抑圧するために、理性に対する信仰と言えるほどの強い執着を抱いた。知的な工ッセイの雑誌『雑記帳』(1936-37年)の絹集と執筆活動によって理性への信頼をひたむきに訴える姿勢は、心の奥に押し込めた恐怖と表裏一体だったであろう。彼が清少年に対して過敏な反応を示さずにいられなかったのは、少年の存在が心の奥の恐怖を呼び覚ましかねなかったからである。そのため彼は、清少年に彼自身の中の忌まわしい観念を投影して攻撃することにより、その観念を自分から切り離そうとした。それと同時に、1940年3月の《茶の風景》を皮切りに、松本の絵画は「黒い線」による透明なイメージの交錯から「量(マッス)」による形態の把握へと大きな転換を始めているが、そこにもやはり、自分の絵の中の非合理な要素を理性的なものによって抑圧しようという動機があった。1939年11月に執筆した「思出の石田君」に記されているように、彼は自分の絵に「のさばりかえっている」黒い線を自分の「無意識」、つまり非合理なものと見なし、それを「量Jの形態に従属させようとしたのである。この時、近代以前の西洋絵画の伝統への関心を深めていた彼は、「量」による表現こそ西洋絵画の本質であり「理性」そのものであると考えていたのだった。このように、松本は清少年の登場をきっかけとして意識に浮上した恐怖を、少年への攻撃と彼自身の絵画の方向転換によって、再び強引に抑圧しようとした。しかし、そのようにして自分の内面の問題から逃避したところで、決して本質的な解決にはならないことに、やがて気づいたはずである。そのことを悟った松本は、自分自身の内面の問題に今度は正面から向き合うために、三部作の制作に取りかかったのである。-379 -
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