鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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■「遊女桜木図」(昭和23年頃)個人蔵〔図5〕吉川の古画の原点は、絵専で学んだ円山派•四条派にあった。つまり、「生」を写吉原真龍「少女遊戯図」(注17)、(奈良県立美術館蔵)〔図4〕毬を突く少女の姿態、振袖、帯結び等ほとんどそのままであり、一目でこの作品を参考にしたことがわかるが、真龍が描く衣裳の勢いある輪郭線や軽妙な様子が観方のそれでは抑制されているため、より平明で清楚な印象を受ける。吉川の描く少女の振袖は、コレクションにある「鼠羽二重地松原道中文様振袖J(福岡市博物館蔵)が用いられ、文様をそのまま写し取ったような細かな描写がみられる。契月や松園にも真龍やその師上龍(注18)からの継承が確認されているが、吉川もまさにこれに類するといえる。吉原真龍「太夫」、京都府立総合資料館蔵(京都文化博物館管理)[図6〕吉川は、この絵を真龍の故郷である大分県の逗留先で描いている。故人を偲び、兼ねてから心にとめていた(注19)真龍への追I卓の気持ちを込めて描くとは、粋な計らいである。太夫の顔の向きや手の添え方は違うが、打掛の描絵風の竹林文様や太夫のすずしげな眼差しには共通点が認められ、島原太夫らしい京風の髪飾りにも同様の注意がはらわれている。また、色数を抑えている分、打掛の裏地や下着の紅色がアクセントとなり、画面を引き締めている点でも類似点が見出せる。落款の示す、「偲豊後人吉原真龍筆意平安東山画人観方写之」にあるとおり、筆意を継承するものである。し、「気」を描くといった東洋精神の「写実性」に基づき、人物の醸し出す雰囲気、つまり存在のリアリティーを重視するものといえる。当時の画家が個性の主張や表現の自由を標榜し、西洋風の物質(肉体)のリアリティーを求める方向とは対極にあり、また榊原紫峰、村上華岳、士田麦遷、小野竹喬ら身近にいたであろう絵専の先輩が、「芸術が個人の生の問題であり、個性の尊重と創作の自由への強い信念」を創立宣言文とする「国圃創作協会」を発足させ、さらには福田平八郎、木村斯光、堂本印象などの同輩・後輩が新装の帝展を舞台に両壇で活躍していく動きからも吉川はあえて遠ざかってきたのである。こうした吉川の、ともすれば古くさい作画方法は、西洋画の様式に翻弄され、日本固有の画風を見失うことに危惧を感じたとも思える行為である。いずれにしても、吉川の人物表現は、古圃にこそみいだされる洗練された伝統であり、脈々と流れる歴史を包括しながら現在の制作も成り立つという信念に支えられているものだと考えられる。これは、吉川が風俗研究を行なう上でも大切にしている様式美の踏襲にほかならない。-30 -

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