鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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照らす光は教会の真上の空から放たれ、光を背にしているはずの画家の顔と胸も明る<照らしている。この超自然的な光は、おそらく理性の光であろう。そして、彼の後ろにうねる道は、彼が都市の中心へ向かってゆくことを想像させる。しかし、都市の全貌をこのように俯鰍するには、松本は都市の外れの高台に立っていなければならないはずだが、彼の足元と都市の中心に向かう道との間には、かなり不自然な空間の断絶があり、立てかけられた大きな都市の絵の前に松本とその家族が立っているようにさえ見える。この空間の断絶は、《画家の像》における現実の抵界と描かれた虚構の世界との関係をいっそう複雑にしているようである。松本はこの現実と虚構の錯綜によって、理想の自己、あるいは願望の自己に関する壮大な幻想を作りあげている。つまり、背景の都市は画家松本が描いた「絵」であり、彼自身が創造した世界である。彼は、西洋美術の伝統の精神に満ち溢れ、理性の光に照らされたこの都市の絵を描きあげると、絵筆とパレットを放り出し、絵の中にみずから入っていった。彼は自分が描いた絵の世界の住人となって、その世界の中からこちらを振り向いたところである。つまり、〈画家の像》の松本は、彼自身にとって理想的な世界をみずからの手で創造し、愛する妻子とともにその世界に生きている、「神のごとき芸術家」なのである。4 《立てる像》=否定的な自己《立てる像》は〈画家の像》と対照的に、題名にも画面にも、描かれた人物が画家であることを示す要素はない。見る者の視線を遮るように立つこの巨大な人物像には、一見「立ちふさがる」という言葉を連想させる雰囲気があり、だからこそファシズムに抵抗する人間の姿と見なされたのだった。一方、「反ファシズムの絵画」という解釈に疑問を持つ立場からは「希望に満たされた未来を指し示す」といった見解も述べられてきた(注4)。しかし、作品を詳しく観察すれば、この人物が決してそういったポジテイヴな意味を持たないことが明らかになる。《画家の像》では茶系統の色彩で画面全体が統一されているのに対し、〈立てる像》では背景の半分以上を占める白い空と、黒い服の人物・薄暗い風景との間に強いコントラストがある。空をはじめ画面全体に緑色の絵具が下層に用いられ、所々に透けて見えるため、作品の色調は寒々しい印象を与える。空にはいささか間の抜けた形の丸い雲が3つ、人物を取り囲むように浮かぶ。一方、地面には人物の足もとから手前に影が伸びている。つまり、彼は曇り空の下で、光を背にして立っているのである。街外れの風景は幅の広い道によって分断されているが、その道は人物の足元で不自-381-

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