鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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5 《五人》《三人》=現在の自己•新たな理想の自己分の心が掻き乱されるのは、理想の自分と否定的な自分が対立していたからだった。しかしその口つの自分は、どちらも実在しない。両方とも自分で作りあげていた幻にすぎなかったのだ。ここにいる現実の自分は、そのどちらでもないのだて彼は、現実の自分をあるがままに捉えるために《五人》《三人》を描いたのである。これまで《五人》と〈三人》がほとんど注目されなかったのは、《五人》の松本の姿が「抵抗の画家」のイメージにそぐわない、影の薄いものであり、また《三人》の人物群像にも捉えどころのないことが大きな理由であろう。造形的にも、平板な写実技法による面白味のない作品と見られてきたのではないかと思われる。だが、この没個性的な形式を松本が意図的に用いたことが、1942年10月に発表された「絵に関しての雑文」からうかがわれる。松本はそこで、「無性格的な形式を貫いて、激しい個性的な心情をたたきつけてくるような作品」が念願だと述べたうえ、「無性格」の例としてギリシャ文化を挙げている。彼はこの文章に表明したことを、《五人》《三人》において実現しようとしたのであろう。そして、彼の言う「無性格」な形式は、〈五人》《三人》の主題とも密接な関わりがある。《五人》と《三人》は、松本夫人の記憶によると、アトリエに2枚のキャンヴァスを並べて同時に制作された。より大きな横長の画布l枚に描かれなかったのは、1943年の二科展が1人100号1枚までに出品を限定すると事前に伝えられたためである。しかし、松本は2枚とも出品できる可能性を期待していた。2枚の絵の裏面を調査したところ、2枚それぞれに白いチョークによる松本の字で「会友」と記され、《三人》の木枠には松本の自筆による出品ラベルが貼られていた。つまり、結果的には《三人》だけが出品されたが、松本は2枚とも二科の審査会場に運んだのである。こうした制作と発表の経緯を踏まえるならば、〈互人》《三人》は100号キャンヴァス2枚で1点をなす、松本の生涯における最大の作品であることが理解される。しかし、《五人》と〈三人》の両方に署名が記されていることからも察せられるように、2枚のキャンヴァスは「一対」の作品であると同時に、それぞれ独立した意味を与えられてもいる。《五人》と《三人》には異なる時間の流れがあり、2枚のキャンヴァスを合わせると、ひとつの連続した空間が現れるとともに、より大きな主題が明らかになるのである。《五人》に描かれているのは、松本の「現在」である。作業着のような茶色の服を着た彼は、妻と息子、そして親戚の子供たちをモデルとした女の子2人に囲まれ、おと。そし-383 -

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