そらく質素ながら幸福な家庭生活を送っている。背景は畑と工場のある、ありふれた街の眺めである。〈画家の像》にも描かれたような教会のドームが遠景に見えるが、工場の煙突がそれよりも高く煙を吐いていることに注目すべきであろう。妻は《画家の像》と同様に木箱に腰掛けているが、〈画家の像》の木箱の上に画家の職業を表す溶き油の瓶と筆洗が置かれていたのに対し、〈五人》の木箱には馬鈴薯と蝶番が載っている。これらは背景の畑と工場に対応して、素朴な労働を象徴する。つまり、ここにいる松本は平凡な家庭の長であり、芸術家というよりもひとりの労働者なのである。一方、《三人》に描かれているのは松本の「過去」と「未来」である。杖をつく初老の男が「未来」の松本であることは、《五人》《三人》の部分習作デッサンを描きためたノートから確認できる。そのノートの一頁には、おそらく鏡を見て描かれた松本の横顔があり〔図14]、それをもとに想像した初老の彼の横顔が、別のデッサンとして描かれている〔図15〕。他の2人も、それぞれ少年時代と思春期の松本である。彼はイタリア・ルネサンス絵画の「人生の諸段階」の寓意をここに利用したのであろう。また、画面の左端には樹木があり、3人が立つ地面には伸び始めた草や、枯れて折れた木の株が描かれているが、これらの植物も、やはり生命のサイクルの象徴である。2枚を合わせた《五人》《三人》の空間〔図16〕は、松本の現在と過去・未来をひとつに結びつける。風景の広がりの中に、彼の人生のすべてが集約されているのである。《五人》と〈三人》に分かれていた群像は、2枚の絵を合わせた時、8人がひとつの緩やかな集団を形成する。なお、この集団を左右から括る「未来」の松本と木箱に座る夫人については、丹治日良が未公刊ノートにおいて、古代ギリシャの〈テアノ墓碑》〔図17〕が着想源ではないかと指摘している(注6)。しかし、これら8人のうち、正面を向いた2人の「過去」の松本には他の人物との感情の交流がない。特に、ひとりだけ暗い色のシャツを着た思春期の彼は、憂鬱な表情で孤立している。しかしそれは、家庭の幸福を知る「現在」の松本が、もはや思春期の孤独で憂鬱な彼ではないことを意味しているのであろう。成熟した大人の表情をした「現在」の松本は、自分の人生をごくありふれたものと見ているようである。家族を守り、家族の愛情に接していられればそれでよい。若木が成長して大木になり、やがて枯れて倒れるように、自分もいずれは老いて死ぬだろう。しかし自分が死んだ後も、自分の生命は子供たちに受けつがれてゆくだろう一ーというような素朴な人生観を、この男は持っているように見える。松本はあるがままの現実の自己を、《画家-384 -自分はただ黙々と働いて
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