注(1) 以下に言及する松本の文章については、次の文献を参照のこと。松本竣介『人間風景](新装の像》の「神のごとき芸術家」でもなく《立てる像》の「孤独な愚か者」でもない、ひとりの平凡で幸福な男としてここに描いたのである。しかし、《五人》《三人》を二科の会場に持ち込みながら1点しか出品が認められなかった時、松本が《五人》ではなく《三人》を選んだことには理由があった。この2枚組の作品には多数のデッサンと油彩習作が残されているが、ほとんど全てが個々の人物像の習作であり、構図に関するものは《三人》の上から3分の1ほどの部分をノートに描いたデッサン〔図18〕が唯一である。従って、〈五人》《三人》の最も重要な意味はこの部分にあると考えられよう。このデッサンには、空の右の方に「光、明るく」と書き込みがある。完成作でも、空のこの部分は日没前の光に満たされ、その光は「未来」の松本の額を照らしている。そして、彼の肩越しに見える遠くの丘はアクロポリスである〔図19• 20〕。従って、「未来」の松本は再び光と理性に結びつけられていることになる。しかし、この光は《画家の像》の超自然的な神の理性の光ではない。「未来」の彼の額を照らしているのは、老年の叡智の光であろう。松本はこの初老の男を、ありふれた人間である現実の自分が老成した姿として描いている。この「老賢者」が、松本の新たな理想の自己イメージであり、これによって〈画家の像》、〈立てる像》、《五人》《三人》の三部作がしめくくられるのである。以上に述べたように、松本竣介の《画家の像》、《立てる像》、〈五人》《三人》は、「自己」という主題を弁証法的思考によって展開した三部作である。《画家の像》は「神のごとき芸術家」という理想的な自己のイメージであり、その対極にある《立てる像》は、「孤独な愚か者」という否定的な自己のイメージである。両者の対立は、2枚組の《五人》《三人》によって解消される。《五人》に描かれたのは、平凡な労働者、家庭の長としての現実の自己であり、《三人》には、新たな理想の自己イメージとしての「老賢者」が描かれる。松本はこの三部作を完成することによって、少年時代の体験に由来する内面の問題をみずから解決し、生きることの意味を新たに見いだした。3年間にわたって取り組まれ、1年に1点ずつ描きあげられたこの三部作には、松本竣介の精神的、人間的な成長の過程が記されているのである。6 結論増補版)中央公論美術出版,1990年。-385 -
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