4.施主注文による絵画制作第2章染織資料へのアプローチ3で紹介した作品は、戦争前後の物資・食料不足の折、京都や大分の旧家に逗留して制作の場と飲食の世話になって描いたものである。逗留先の家族とのあたたかい交流をとおして彼の制作環境と経済的側面を支えた人々との産物である。それは、施主の意向を汲み、「手毬少女図」は町家の玄関に合う衝立として仕立てられ、「遊女桜木図」は昭和9年に大分で最初の百貨店経営を営んだ人物が、戦後地域の活性に建設した料亭の大広間に飾られるようにと、それぞれの場に相応しいように描かれたものである。吉川が、日常的に人が行きかう空間で、造形性の商い強い自己主張の作品ではなく、江戸時代の情緒を残し、豊かな文人的教養の伺われる題材を選んだことは、かつての画人たちが放浪の中で描き残してきた多くの作品に通じるものを感じる。近世の小袖が注目され、古美術等で流通し、蒐集の対象になっていくのは漸く大正〜昭和初期になってからとされている。この章では、近世小袖の価値付けの黎明期に、吉川がどのように関わっていたかを考察する。1.近世の小袖をめぐる情勢近代以降、染織品で注日されたものは、まず殖産輿業において輸出に貢献できる絹織物であり、少し趣味的に見ても数寄者が蒐集対象とした舶来織物を中心とする名物裂であって、いわゆる流行服飾の前身であった近世小袖は、一種の消費物としての認識しかなかった。しかし、昭和に入り日本人の洋装化が進み、我国独自の服飾に危機感を抱くようになって、新たな存在価値を小袖、つまり近代の「きもの」に見出すようになった。つまり、その「きもの」の最盛期であった江戸時代の小袖に目が向けられるようになったのである。これに最も早く反応したのが「きもの」の意匠を改革・検討していこうとする呉服商、後の百貨店であった。新しいデザインを生み出す源として蒐集・研究を行い、三越が先鞭となり、明治38年元禄文様を復活させ、いわゆる新元禄文様として商品開発を進めた。このため、有識者(多くの場合画家)を集めて元禄研究会を組織し、これが他の呉服店へと波及した(注20)。高島屋や松坂屋などの呉服店から百貨店に発展した老舗も、明治末から大正期にかけて図案の懸賞募集を行い、復古的なデザインから斬新なデザインまで広く手がけた(注21)。この時期、各呉服店では、膨大な近世小袖を蒐集したといわれる。また、一方で小袖の学究的研究が開始され、日本美術史の中に位置付けられるのが昭和のはじめとする見解がある(注22)。それによると、昭和6年から3年間恩賜京-31 -
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