9)が開催されたが、これは1939年にファシスト党政権下のイタリア、ミラノで行わスを通つて、近代フランスに及ぶ、一本の延長線の上に「生存」してゐる」(注8)と捉えていた大部分の日本の美術家・美術批評家たちにとって、フランスの敗戦が与えた衝撃は大きかったのだろう。1940年8月の『みづゑ』には、「仏蘭西芸術は何処へ行く一今時の世界戦と今後の芸術の方向を語る座談会一」という記事が掲載された。この座談会で荒城季夫は、フランスの敗戦が「芸術方面に於て世界全国に与へる影響」を指摘し、江川和彦も「これからの芸術が何うなるかといふこと」が問題となるという認識を示す。ここから「今後の吾々の芸術の方向を如何に求めるか」(江川)という問いが生まれてくるのぱ必然的であり、そのなかで当時日本と同盟関係にあったドイツとイタリアの美術に視線が集まったことは想像に難くない。たとえば1940年代前半にはレオナルド・ダ・ヴィンチのブームが起きているが、それも当時の日本を取り巻く国際情勢の文化的反映と捉えることができる。1942年7月に東京、上野池の端産業館で「アジア復興レオナルド・ダ・ヴィンチ展覧会」(注れた「レオナルド・ダ・ヴィンチ展覧会(Mostradi leonardo da vinci)」の出品物の一部が日本に巡回したものであり、「日伊同盟文化の積極化に貢献」する意図のもと行われたものだった(注10)。それ以外にも、日本における優れたイタリア研究に対して授与される「レオナルド・ダ・ヴィンチ賞」が、1939年に伊太利亜中亜極東協会によって設立されたことなど、イタリア・ルネサンスの代表的美術家であるレオナルドの名前が、戦時下の日伊関係を促進する目的で利用されたことが判明している。その他高草茂は、戦時統制下においても日独伊文化同盟を締結した国に関する書籍には用紙が配給されやすかったため、多くの関連書籍が刊行されたという興味深い回想をしている(注11)。こうした証言などもあわせて考えると、美術界における)レネサンスヘの関心の高まりは第二次大戦下の国際的政治情況と連動したものだったと言えよう。「近代」再考と「古典」復興ところで上述の動向には、国際情勢からの直接的な影響とともに、これまで規範としてきたフランス近代美術が代表する「近代美術」あるいは「近代」という枠組みを問い直す問題意識が見られる。それは個性、自由、新しさといった要素が重視されてきた日本近代美術を再考する試みでもある。そしてルネサンスこそは、そうした要素に重きをおく「近代」の起源だと考えられていた。「文芸復興」と邦訳されるルネサンスヘの問いは、当時さまざまな分野で話題となっていた「古典」、「伝統」、「古典復-393 -
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