年2月の編集後記には、「ルネッサンスが、人類史嘗ての大分水嶺であったとすれば興」、あるいは「近代の超克」、「近代の終焉」をめぐる議論と不可分のものだったのだ。日本浪漫派の詩人・評論家である浅野晃は「古典復興の問題」(『アトリエ』1938年8月)で、「歴史上、単なる復古主義は、結局敗れ去つてゐることは事実だ。そこに残つて、何らか新しい進展の時期を画し得てゐるものは、いつもルネサンス的な、復古である。」と述べる。自らの民族が基盤としてる「神話」や「歴史」に遡行することで「現在」の文化を更新することが、「ルネサンス的な復古」すなわち真の「古典復興」だと浅野は言う。同様の発想は土方定一の「移植文化論」(『アトリエ』、1940住的類型」「植民的類型」「受容的類型」「ルネサンス的類型」と分類し、従来の日本における文化の「移植」は主に「植民的類型」「受容的類型」だったとする。そして現在、同一民族内で過去の文化形式からの「移植」である「ルネサンス的類型」が「あらゆる文化部面に於いて」緊急に必要となっていると土方は述べる。これは自らの過去の文化の再生を通じて現代の文化を更新すべきだという浅野と同様の発想である。こうした議論において「ルネサンス」は、特定の歴史的事実というよりもむしろ、日本美術(文化)のあり得べき再綱・革新のメタファーとなっている。「古典復古」の主張は、日本におけるルネサンスをめぐる問題でもあったのだ。『アトリエ』1938今や、この近代文明史を更に転回せしめる第二の大分水嶺をなす時期であるといへるだらう」と記され、新たなるルネサンスヘの期待が示唆されている。また山際靖は、「日本美術のルネッサンスー何が正、何が反、何が合」(『アトリエ」、1938年3月)において、江戸以前の「伝統的」芸術と明治維新以後に受容された西欧文化を対立させ、二つを止揚する「日本のルネッサンス」を実現しなければならないと述べる。これはルネサンスの概念を文化再蝙のメタファーとして用いる典型的な思考だ。同様の発想が「大東亜共栄圏」に拡大して適用された場合、「アジア復興レオナルド・ダ・ヴィンチ展覧会」における「我が国のアジア・ルネサンス」の遂行という主張に結びつく(注12)。また過去の歴史に「日本のルネッサンス」を追認することで、日本美術(文化)史を「世界史的」視点から再編しようとする試みも見られる。たとえば1941年8月『アトリエ』の鎌倉時代の美術に関する特集号の編集後記は、「日本ルネサンスを何処に置くかと云ふ論議」の存在に言及している。日本文化とそれ以外の大陸文化(西欧及年11月)にも見られる。土方はシュプランガーに倣い文化の「移植」の類型を、「移......... -394 -
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