鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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び中国、インド等)とをさまざまな二項対立によって比較することを試みた柳亮『日本美の創生』(育生社弘道閣、1942年6月)にも、同様の発想が見られる。柳は過去に外来文化が流入した時期(天平期前後、鎌倉期、室町・桃山期、江戸中期〜末期、明治期以降)を「日本美術の五つの「ルネッサンス」」と呼び、それらを自らの文化にはない「異質」な要素を外来文化から取り入れることで文化を更新した重要な時期だとする。また文化史家の大類伸は『ルネサンス文化の潮流』(文芸春秋社、1943年5月)において、イタリア・ルネサンスを擁護しながらもその功罪を問うことの重要性を説く。特にルネサンス以降、文化が総体的に「西方化」したことを批判し、「ルネサンスヘの反省は、西方の東方への反省であり、更に大きく云へば西洋の東洋への反省ともなる。」と述べた上で、「国史のルネサンスたる桃山時代」を論じる試みを展開している。大類は同書においてルネサンスは「決して東洋のものではない」としながら、それでもルネサンスを論じる意義は「偏皮な西方的発展を遂げた近代西洋」を反省することにこそあるのだとする。このような「近代西洋」あるいは「近代」への批判は、第二次大戦下のルネサンス論隆盛の背景を考える上で看過できない要素である。それまではフランス近現代美術の紹介を担ってきた柳亮や荒城季夫のような美術批評家たちが、この時期になってルネサンスに目を向けたのは、何よりも「近代西洋」「近代」を相対化する必然性からであろう。まとめ戦後に向けて辻成史によれば、日本文化を論じる際に「伝統」という言葉が積極的に使用されるようになるのは、第二次大戦下の1937年頃だという(注13)。事実、戦時下の日本についてはしばしば日本回帰や伝統回帰の現象が指摘される。だが一口に回帰と言っても、単純に日本の古美術にのみ視線が向けられたわけでは決してなかったことが、本研究によって判明した。それどころか、第二次大戦下の日本美術界においては、ルネサンス美術をはじめとする非常に多彩な西洋美術の紹介が行われていた。戦時下の文化を取り巻く論者たちは、明治以来西欧化を経てきた日本の文化が単純に回帰できるとは考えていなかった。「近代の超克」「近代の終焉」等の戦時下の流行語の背景にも、「近代」について突き詰めて思考することからしか「超克」はあり得ないという認識があったのだろう。「ルネサンス」についての議論は、そうした「近代」(あるいは「西欧近代」)への問いがあったからこそ、盛んに行われたと言えないだろうか。第二次大戦下のルネサンス論の流れは戦後になっても決して途絶えたわけではな-395 -

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