2.小袖類の図版集発行の契機3.年代判定にむけて都博物館で当時「衣裳王」といわれた野村正治郎の所蔵する小袖を中心に大規模な「染織古名品展覧会」が開催され、その際に発行された『染織名品図録』で、漸く小袖が鑑賞の対象として全図で紹介されたのである(注23)。また、美術史の論文集として権威のある『国華』では、昭和8年にはじめて齋藤隆三氏の論文「寛文時代の小袖文様に就いて」が登場した。このように、昭和初期には小袖のデザイン的価値に、学問的価値の裏付けが伴い、小袖の再認識と新たな価値付けがはじまったのである。さて、吉川にとって小袖は、浮世絵に描かれた女性たちを彩る美しく華やかな装飾物であり、時代の風俗を表現する手段として、公家・武家と比較するところの町方の衣服であった。さらにいえば、吉川は大正7年から松竹合名会社で映画・舞台にかかわる衣裳の考証・製作に携わっていたため、時代劇の世界では、まさに活きた資料として近世小袖を扱ってきたし、小道具としてのそれらを誂ていた高島屋との関係から、流行を創造する高島屋の百選会にも顧問として関わり、小袖文様を復刻することにも尽力していた。つまり、小袖はあまりに身近にあったために研究材料としては当初それ程意識しなかったのではないかと考えられる。しかし、研究対象としての興味が小袖に大きく傾く時期がある。吉川の出版物からその興味の方向を探ると、〔表1〕のように大正期までは浮世絵・風俗画資料を掲載した出版物が多かったのに対し、昭和7年頃から小袖や装身具のコレクションを出版するようになるのである。これには、質量ともに小袖を豊富に所持していた野村との関係が大きな意味を持っている。住まいが近かったことや風俗史研究会で互いに接点のあったことは、表面的なことであるが、何より小袖に美を見出し、衣服としての印象を大切にした点に大いに影響を受け、吉川の小袖研究を導いたに違いない。風俗研究会では、江馬と吉川が確執を生じ疎遠になっていくなかで親密度を増した野村との交流が小袖研究へと拍車をかけることになった。吉川と野村の小袖に対する共通認識は、小袖を衣服の印象とその優雅な美を重視する美術品として扱うという点にある。特に吉川は、画家の眼と絵画知識から小袖を着用しだ情最そのものを重視し、野村は小袖の文様や技法の特質を現物にそって考察した。また吉川は、小袖の断片を利用して小袖の復元や補正を行い、取り合わせて着装してみせ、祇園練物や染織祭などの行事で再現し、野村は小袖屏風(注24)として小袖裂をよみがえらせた。小袖の年代判定は、この口人によってどんな形で実現したのだろうか。-32 -
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