鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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の章タイトルは“上空一千米”であり、商度計はそれをそのまま視覚化しただけのものであるのだが、手のおおらかな素描表現と高度計の硬質な質感の表現との違和感が、挿絵に超現実的な趣を与えている。小磯は1930年にヨーロッパでの遊学を終えて日本に帰国し、その翌年の1931年、神戸の山本通にアトリエを新築し、画家としての活動を本格的に始めたところであった。「暴風帯」の挿絵は、小磯の制作活動が軌道に乗り始めたころに依頼された仕事であり、ヨーロッパで見た前衛的な芸術や、流行のモダンなファッションなどの記憶がまだ新しく、挿絵の中に活かされているようである。またここで、油彩画を制作する際にはおよそ試みることのない構図や表現が実験的になされていることは興味深い〔図5第17回、第35回〕。小磯は、挿絵の仕事をする際、油彩画制作の時と同様、モデルを使って登場人物を描いた。当時小磯のアトリエに出入りしていた画家たちが、知らない間にデッサンされ、モデルになっていたということもあったらしい。「暴風帯」の男性主人公の姿は、初めの頃は人物を特定できないが、第65回〔図6〕以降では、中学生時代からの親友、竹中郁がモデルであることがはっきりと判る顔となっている。しかし、回を重ねるにつれ、登場人物の顔が変わっていくというのは、本来、連載小説の挿絵としてあってはならないことであろう。また、最も読者の興味を惹くはずの女性主人公の顔や姿に、全話を通じての統一と個性がそれほど感じられない「暴風帯」の挿絵は、印象が希薄であり魅力に乏しいように思われる。時折見ることの出来る、ぼきぼきとした力強い描線の見られる挿絵〔図一》〕に共通する伸びやかさが窺えるのであるが、小説の伴奏である挿絵として読者に歓心をもたらしたかどうかは疑問である。「暴風帯」の挿絵は、小磯なりに様々な工夫をこらしたとはいえ、挿絵の仕事に不慣れな印象を与えるものである。この挿絵以降、小磯はしばらく挿絵の依頼が無かったが、5年後の1937年、都新聞連載の丹羽文雄の小説、[薔薇合戦」(1937年、丹羽文雄著都新聞)の挿絵を依頼される。この小説も女性が主人公である。「暴風帯」の挿絵制作時から「薔薇合戦」の挿絵制作依頼を受けるまでの約5年の間に、小磯は油彩作品《裁縫女》〔図9〕で2度目の帝展特選をとり、1935年の帝展改組問題に、1936年の新制作派協会の結成など、制作活動に関連する様々な事柄を経験した。とりわけ、新制作派協会を結成したことは、小磯の生涯においても最もエネルギーを費やした出来事であり、かつ、小磯が画家としてさらに強い意志を持って制作に臨む再出発点となったことは明らかである。小磯は自らの画業について「絵で大切なことは、やはり夢中で描けることでは…」と語り、最7 第155回〕には、滞欧期のデッサン〔図8《フランスの女》、《裸婦のクロッキも脂が乗りきった30代後半—1940年代の絵が自分では好きだと言っている(注2)。ま-402 -

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