鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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第64回〕。「波濤Jの挿絵は、それまでの挿絵と比較すると、墨の階調に豊かな幅があ生したと推測される挿絵〔図13第28回〕が、当時の生活風景や風俗を写し伝えており、現在の私達にも興味深い内容となっている。小磯は、美術学校時代よりその写実力を評価され、マスメデイアにもしばしばその作品が登場する、一般にも知名度の高い画家であった。そのようにして注目を浴びてきた小磯は、1938年5月、陸軍報道部の委嘱により、支那事変記念画制作のため上海へと渡る。この時の制作《南京中華門の戦闘》〔図14〕は翌年の7月、第1回聖戦美術展に出品された。「波濤」は、そうした戦争の時代を生きる若者達が主人公の小説であり、小説中でも、時局に違わず若い男性が徴兵され、戦地へ赴いて行く姿が描かれている。この「波濤」における挿絵で小磯は、戦争記録画作成のための取材経験に基づく正確な描写とともに、彼が戦争記録画のなかの兵士たちを特質づけたのと同様に、挿絵の兵士姿の青年にもメランコリックな情緒を込め、読者の印象に残るような挿絵を描き出している〔図15第40回、り、奥行きのある味わい深い視覚的効果が楽しめる挿絵となっている〔図16第122回〕。を主たる技法として使用して、水彩の淡彩によって淡い陰影をつけた作品である。小説の内容が直接戦争にかかわるものでないこともあるだろうが、1938年の「波濤」に比較すると、一貰して明るいモダンな印象を与える作品である。1930年代が小磯にとって、挿絵のスタイルの模索の時代であったとすれば、1940年代はその成果の時代であるといえよう。「風樹」(1941年、石川達三著朝日新聞)も、若い女性が主人公である。この主人公は、当時としては新しい考えを持っていて、女性も社会に出て労働すべきであるとして努力する。しかし、女性主人公の理想どおりに事が運ぶような時代にはまだ早く、結局、家庭の主婦に収まらざるをえない。この女性主人公には、引き続き1930年代からのモデルが使われている。挿絵の中では、小磯が油彩画制作のときにモデルに着せていたコスチュームそのままの姿で描かれている場面も見つけることができる。この挿絵の魅力は、日常的なさりげない場面が描かれた挿絵に、温かみのある親密さが感じられるところである〔図17第19回、第91回〕。挿絵は印刷されて鑑賞されるものであるために、素描作品の描線以上に、明快な迷いの無い線を必要とするかもしれない。小磯の引く線の確かさは、この「風樹」の挿絵において、温かみのある親密さを纏いながら、安定感、安心感のある画面を作りだしている。そして「風樹」のあと小磯は、明確な輪郭線の使用を極力押さえた、水彩の淡彩の濃淡を主として表現した挿絵「人間鉱脈」(1944年、中野宵著毎日新聞)を手がけ〔図181940年代の挿絵として、注目すべき作品は「風樹」であろう。この挿絵は、コンテ-404 -

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