鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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〔図19第23回、第49回〕で試みている。小磯は、[風樹」において、挿絵の表現を自分なりに確立し、自信を得たのであろう。「風樹」以降、各挿絵において、印刷効果を考慮しつつ新たな表現を試したことが見て取れる作品が現れる。また戦後しばらくして、挿絵の雰囲気そのものが、使用している支持体の変化に伴い、新しい様相を示すようになっている。小磯記念美術館において原画が確認できる、「風樹」、「人間鉱脈」「ひとで」を見ると、描かれている支持体は、スケッチブックの用紙と同等のものであったり、「ひとで」(1946年、武田麟太郎著夕刊新大阪新聞)においては、色紙であったりと、普段画家が使い馴れたものであった。それが1950年代の作品になるとケント紙が使われるようになり、インクが主として使用されたことによって、技法にさらなる変化が見られるようになるのである。技法及び材質の変化に伴い、1950年代以降の挿絵の表情はシャープになり、時にデザイン的な表情を見せるようになっている。「白い魔魚J(1955年、舟橋聖ー著朝日新聞)は、水彩による陰影表現に加えて、ハッチングや、墨のベタ塗りによる陰影表現をとりどりに組み合わせてちりばめた挿絵である〔図20第12回、第32回〕。この頃小磯は、東京藝術大学の教授を務め始めて数年が経っており、学生を指導する上で必要でもあったのだろう、時代を賑わせる最新の美術に関して、敏感な反応を見せていた時期であった。それは、小磯の油彩画における作風の変化からも明らかであり〔図21〈室内の少女》〕挿絵で見せたようなハッチングの技法については、油彩画にも確認することができる〔図221952年〈絵を描く男》〕。また、小磯は1958年、東京藝術大学において、学部長の伊藤廉とともに、版画教室を設けた功績がある。ハッチングの技法は、1961年の「古都」(1961年、川端康成著、朝日新聞)の挿絵〔図23〕の中でも使用されているが、その描線には、小磯が自らも積極的に銅版画を制作し始めた頃の線と共通したシャープさが感じられる〔図24〈戦い》〕。「白い魔魚」の挿絵における技法上の新しい工夫としては、墨のベタ塗りをひっかいて、白い線によって形を浮かび上がらせた方法が注目されよう。挿絵第10回〔図25〕は、夜の風景が描かれている。ベタ塗りのしっとりとした濃い墨は、まとわりつくような闇の表現にぴったりであり、版画のような面白さを見せている。ただ、新聞紙上の印刷においては、こうした原画の良さを伝え切れないのが残念である。また、第28回の挿絵〔図26〕においては、同様の技法を使って夜の繁華街の風景を描き出している。照明に明る<照ら第3回、第49回、第72回〕、洋画の技法から離れた墨彩による濃淡の表現を「ひとで」1950-60年代の新聞連載小説挿絵-405 -

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