鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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⑩ カラヴァッジストによる「キモンとペロー」—ーマンフレディの関与をめぐって—17世紀の南北ネーデルラントでは、「キモンとペロー」を主題とする絵画が人気を研究者:京都大学非常勤講師深谷訓子はじめに博した。この流行現象は広く知られているものの、カラヴァッジョ、マンフレデイ、ルーベンス、ファン・バビューレンらの影響関係について、それを正確に整理し把握しようとする一貫した試みは未だなされていないといえよう。そこで本稿では、主にこの主題をめぐる画家たちの影響関係について見ていくことにしたい。その結果、この主題が北方に伝播するにあたって、マンフレデイの作品が大きな役割を果たしたことが明らかになるだろう。さらにその過程で、この物語を表現する際の父娘のポーズが、徐々に定式化していく様子も跡付けられることになる。まず、ごく簡単に主題史を振り返っておこう(注1)。周知の通りこの物語は、獄中での餓死を宣告された父親を娘が訪れ、密かに授乳することによってその命をつなごうと試みるというものであり、ウアレリウス・マクシムスにその典拠をもつ。この物語を描いた古典古代のフレスコ画なども現在に伝わっているほか、中世においてもソリヌスの手写本など数点の現存作例が知られる。だが多数の作例を残すようになるのは、ルネサンス期以降に本格的に復興した後のことである。まず1525年頃にベーハム兄弟が版画の主題にとりあげて、その後も数点の作例を残し〔図1〕、同じくニュルンベルクで活躍したシュヴェッツァーやペンツらの周辺にも作例が集中している。またイタリアでは、やはり16世紀前半のペリン・デル・ヴァーガの作例やロッソの図案に基づく版画(1544年)などがある。そして17世紀初頭になると、カラヴァッジョが〈七つの慈悲の行い》(1607年)の祭壇画の中に、「空腹の者に与え」、「獄中の者を見舞う」という二つの慈愛の行為を体現するものとして、「キモンとペロー」の姿を描きこんで見せるのである。またちょうど同じ頃、北方でもホルツィウスが修辞愛好家団体の紋章盾(1606年)に、この親子の姿を取り入れている。1610年頃にはブルーマールトが大画面の《キモンとペロー》を制作し、ルーベンスも最初の《キモンとペロー》(エルミタージュ美術館)を描く。そして1620年代から、とくにカラヴァッジストやルーベンス周辺の画家たちを中心に頻繁に描かれるようになるのである。-412 -

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