ペローの視線を手がかりに一~南北をつなぐ鍵としてのマンフレデイヴァッジョの〈七つの慈悲の行い》〔図2〕である。この祭壇画は当時から非常に高く評価され、1613年には如何なる対価をもってしてもこの作品を売ってはならないことが、また1622年には模写の禁止が定められているという(注2)。ここに見られる「キモンとペロー」の姿に最も近い先行作例は、おそらくペリン・デル・ヴァーガのフレスコ画〔図3〕になるだろう。これ以前のほとんど全ての「キモンとペロー」の作例において、ペローがキモンを見つめる様子で表されていることを考えると、父から視線を外し、鑑賞者や画面内の他の箇所を見るペローを描くことは、とりわけこの両者の大きな特徴だといえる(注3)。なかでも、カラヴァッジョが描いて見せたような背後を振り返るペローのポーズは、後の諸作品で頻繁に繰り返されることになる。ルーベンスは、1612年頃の制作と推定されている最初の〈キモンとペロー》(以下ェルミタージュ作品)〔図4〕では、「父の顔を見つめる」娘を描いていた。彼は1612年にハールレムを訪れており、おそらくその際に、ホルツィウスが1606年に制作した紋章盾などからこの主題に関する刺激を受けたに違いない。そしてベーハム兄弟の版画なども知りつつ、自らの着想で新しいタイプの〈キモンとペロー》を描きあげたと考えられる(注4)。髪を肩にたらし優しく父の顔を見守るペローも、ぐったりと足を投げ出して座るキモンも、この時点までの「キモンとペロー」の先行作例を見渡してみても類例の見つけがたいものである。いずれにしても、この作品にはカラヴァッジョの《七つの慈悲の行い》やそれを色濃く反映したマンフレデイの《キモンとペロ一》などとの関連はあまりみとめられないのである。今回の調査の結果、カラヴァッジョの「キモンとペロー」の姿を北方に伝達するうえで大きな役割を果たしたのが、マンフレデイの作品だったのではないかという結論に至った。これまで、北方でのこの主題の流行を考える際にマンフレデイの関与が指摘されたことはなかったが、ルーベンス、ファン・バビューレンら複数の作品にその影響の痕跡が認められるのである。彼の〈キモンとペロー》の制作年代は明らかではないが、カラヴァッジョの祭壇画完成(1607年)から、没年である1622年頃までに制作されたことは確実であろう。公のコレクションに入っていたことが知られている(注5)。そして実際の作品としても、二つのヴァージョンが現在に伝わっている。ブレジョンが紹介したマンフレデ17世紀の「キモンとペロー」を考える上でひとつの出発点となるのが、やはりカラ1635年の時点で、彼の描いた〈キモンとペロー》がバッキンガム公爵およびサヴォイ_ 413 -
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