めに、かかとが地につかない、中腰の不安定な姿勢の娘を描いている。これはまた、マンフレデイの描いたペローの姿を生かしつつ、それをより座面の低いルーベンスのキモンの姿勢と組み合わせたことで余儀なくされた、高さの調整の工夫でもあっただろう。だがこれにより場面の緊張感は増し、画面左に穿たれた小さな窓にある監視の目も、この説話上の効果を高めているのである。さらにマンフレデイの《キモンとペロー》は、ルーベンスがエルミタージュ作品の次に制作したと考えられる《キモンとペロー》にも影響を与えたものと考えられる。ここでは、ルーベンスの真筆性に関しては意見が分かれているものの、確実にオリジナルの構図を伝える《キモンとペロー》〔図8〕を見ておこう(注9)。ルーベンスの構想では、キモンの姿は肌の露出部分が多く、急激に肉が落ちてたるんだ人間の体を巧みに表現して、肉の画家ならではの腕前を示していたことをうかがわせるが、ペローのタイプ、とりわけその衣の裾の処理などはマンフレデイの同時代コピーに酷似している。とりわけ、エルミタージュ作品とは異なり、父の様子を見守るよりも周囲を気にする表現を導入していること、牢獄の設定を最小限に切り詰めている点などが注目される。キモンが何かに腰かけているのも、自分の前作よりもむしろマンフレデイの作品に近い。非常な好評を博した前作から離れ、ルーベンスはさらに後のヴァージョンでも(注10)、発覚を恐れるペローを描いているのである。こうしたことから、ルーベンスはこの作品を制作する頃までに(注11)、マンフレデイの作品を知ったのではないかと推測される。1625年の春、ルーベンスとバッキンガム公爵とはパリで顔を合わせており、その際に画家は、公爵の肖像素描も制作している。フランドル出身の画家でバッキンガム公爵の代理人を務めていたバルタザール・ジェルビエを介して交流は深まり、絵の注文を受けるだけでなく、1626年にルーベンスが自分の美術コレクションを売却するときには、バッキンガム公爵が買い手のひとりとなる(注12)。このように、ルーベンスはバッキンガム公爵と親交を結んでおり、ヨーク・ハウスの公爵のコレクションについてもかなりの情報を有していたと考えられるのである(注13)。すでに一度「キモンとペロー」を描いていたルーベンスが、公爵の所有するマンフレデイの〈キモンとペロー》に関する知識を得ていたと考えるのは、極めて自然なことであろう。一般に、マンフレデイの作品が当時急速に人気を伸ばし、各地のコレクションに収められていったということはつとに指摘されているとおりである(注14)。本稿で見てきたように「キモンとベロー」という主題の伝播状況からも、その一端を窺うことができるだろう。また、今回カラヴァッジストたちの同主題作例を調査した結果、こ-415 -
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