鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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の両題を手がけたカラヴァッジストの大半が北方出身であるという事実が浮かび上がってきた。当時、マンフレデイの作品はカラヴァッジョ作品の特徴を伝えるものとして、北方のカラヴァッジストにとって関心の的であったに違いない。「キモンとペロー」の北方での流行の背景にあったのは、マンフレディ作品の北方での影響力、それを引き継いだルーベンス作品の人気、さらに北方独自の状況として、17世紀前半に慈善事業との関連でこの物語の周知度が高まっていたことによる受容の素地という三要因だったと思われる(注15)。このように、主題史に照らしてカラヴァッジストの作例を比較検討した結果、カラヴァッジョの描いた「キモンとペロー」において、父親から頭をそらすペローが新機軸であったこと、さらにマンフレディ作品がルーベンスやファン・バビューレンの作品に影響を与え、人に見咎められるのを恐れるペローという新たな着想を北方に広める役割を果たしたことが明らかとなった。また付け加えておくならば、エルミタージュ作品で見られた)レーベンスの着想による「足を伸ばして座るキモン」も人気を博し、パウルス・モレールセ(注16)、カスパール・デ・クライエル〔図9〕(注17)などが同様の表現を採用している。周囲を気にするペローと、足を伸ばして床に座すキモン。これでほぼ、北方バロックの「キモンとペロー」の定型はできあがったと言えよう(注18)。以上、本稿では、「キモンとペロー」という主題を検討することによって、この主題の伝播におけるマンフレデイの役割を浮き彫りにしてきた。またその過程で、ある主題を表現する際に繰り返されるポーズや表現の定式が次第に定まっていく様子をも垣間見ることができたのではないだろうか。l王166, 356-375; Exh.cat., L'alleorie dan la peinture: la representation de la charite au XVlle siecle splendor. Papers in art history from the Pennsylvania State University; 7, pp. 127-163, esp. p. 137. ッベルト美術館所蔵)も画面外に視線を向けているが、微笑みかける表情は監視の目を恐れるカラヴァッジョらの作例とは大きく異なる。この作品はX線調査により、ルイーニのオリジナルではないことも判明している。C.Cantelli, II museo Stibbert a Firenze, v. 2, Milano, 1974, p. 67, (1) 「キモンとペロー」の主題史に関しては主に以下の書目を参照。A.Pigler, "Valere Maxime et l'iconographie des temps modernes", in: Hommage a Alexis Petrovics, Budapest 1934, pp. 213-216; Elfriede R. Knauer, "Caritas Romana", in: Jahrbuch der Berliner Museen, 6 (1964), pp. 10-23; W. Deonna, "La legende de Pero et de Micon et l'allaitement symbolique", in: Latomus 13 (1954), pp. 140-(Tapie, et al.), Musee des Beaux-Arts de Caen, 1986. (2) A. Tuck-Scala, "Caravaggio's "Roman Charity" in the Seven Acts of Mercy", 1993, in: Parthenope's (3) イタリアの最初期の作例として言及されることの多いルイーニの作品(フィレンツェ、スティno. 510. -416 -

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