1917年日本中学校に進学し(注4)、第2学年で美術クラブ(注5)に入り絵を描き1967)が来日し、東京京橋の星製薬の三階で「日本に於ける最初のロシア画展覧会」1926年に出版された村山知義の『構成派研究』(注9)に掲載されているタトリンのブルリュークの来日幼年時代を宇都宮と東京牛込で過ごした斎藤は、牛込尋常高等小学校を卒業後、はじめる。ロシアからヴィクトル・パリモフ(1888-1929)とダヴィト・ブルリューク(1882-が開催されたのは、1920年10月のことである。この展覧会が斎藤を抽象絵画に目覚めさせるきっかけとなったことはよく知られている。展覧会目録によれば、このとき出品された作品は473点であり(注6)、会場写真を見ると作品は壁に何段掛けにも掛けられところ狭しと並べられている(注7)。「私がまったく知らなかった絵画の世界がそこにあった。理解ができなくても、不思議な魅力があって、長い間強い印象が残っていた…」(注8)。斎藤は、そこにある作品というよりも、むしろそれらが放つ未知の世界に興奮を覚えたのだろう。しかしながら、この時の展示作品にコラージュが含まれていることは注目すべき点である。村山知義の「意識的構成主義」「日本に於ける最初のロシア画展覧会」から3年後、村山知義(1901-1977)がドイツから帰国する。ベルリンでダダとロシア構成主義に接した村山は、さっそく「マヴォ」を組織し、数々の展覧会を開催、機関紙『マヴォ』の発行など活発な活動を展開する。斎藤は村山の活動に関心を寄せ、「マヴォ展」や築地小劇場で上演されたゲオルグ・カイザー『朝から夜中まで』などを見たという。そうしたことから、斎藤が〈反レリーフ〉やガボの〈構成〉の図版を見た可能性は商い。また、斎藤の回想によれば、この頃ヨーロッパから帰国した某氏がロシア構成主義やダダに関する画集などを見せてくれたという(注10)。斎藤がヨーロッパを中心に海外で起きている新たな美術運動に敏感に反応した背景には、村山知義、そしてこの某氏からの影響も少なくなかった。こうした経験が、斎藤の芸術における精神的な方向性を決めたといっていいだろう。しかしながら、1920年代末には新興美術運動は終息に向かい、プロレタリア美術運動が盛り上がりを見せる。-423 -
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