鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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「APN」誌面でオブジェと映像の実験的なコラボレーションを行っている(注22)。斎1941年から1947年までの空白1941年、瀧口修造(1903-1979)に続いて福沢一郎が検挙されるという状況のなかに制作した〈レリーフ〉〔図17〕を想起させ、また斎藤のその後の展開は、タトリンの「反レリーフ」から「コーナー・レリーフ」へと移行していった過程と重ねて見ずにいられない。上記以外、図版で確認できる作品は、第14回黒色洋画展案内状に図版が使用されている素描(G.Saitoのサイン有)〔図18〕、「黒色新現実白蛮同時展Jパンフレットに図版掲載のある作品(タイトル不詳)[図19〕の2点である。写真前述したように、戦後まもなく斎藤は、写真家大辻清司(1923-2001)と雑誌藤の写真への関心は比較的早くからあったと思われ、1941年の『みづゑ』第441号には、朝鮮を旅行した際に慶朴1で撮影した写真7点が掲載されている。この記事に一部書き抜かれている旅先から阿部芳文(展也)に宛てた斎藤の手紙を引用してみる。「これ等の写真の門の紋様は王或は領主の旗標などに付ける紋所ださうで、そして建物は概ね廟です。紋様の色彩は朱塗の地へ白、黒、青等の原色が単純素朴に塗つてあり、極めて原始的な感あり。写真のこの紋様を見ていると、色彩の単純な原色性や形の感覚的素朴性が何処か南洋方面の器物の図案等の原始性に一脈通づる様なおもむきを感ずることが隠々あります。」(注23)同じ記事のなかで阿部は、斎藤の写真について「近代派の画家らしい直感的な言葉を持つて」(注24)つづられた旅行記であるとしているが、斎藤が手紙のなかで、赤(朱)、白、黒、青という、斎藤の作品にもっとも多く使われる4つの色について記していることや、前衛美術を標榜する斎藤が原始性や伝統に触れているのも興味深い。で、滝野川の斎藤のアパートにも特高がやってくる。斎藤もまた多くの作家同様に物質的、精神的不自由さを覚える。1941年以降、戦後1947年に大辻清司の自宅兼アトリ工に住み込み、〈あほんだらめ〉〔図20〕の制作をはじめるまで、一時美術界から斎藤義重の名前が見えなくなる。3 その他の作品と戦中のこと-428 -

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