鹿島美術研究 年報第21号別冊(2004)
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ところで、上記の1936年から40年のほとんどの作品にG.SaitoあるいはG.S.とサインされていることに注目したい。斎藤義重は1960年頃からY.Saitoとサインするようになり、自他ともにYoshishigeと認識してきたが、1998年の富山県入善町での展覧会(注ち「ギジュウ」という呼び方を使用していたことがわかった。今後、斎藤の名前の読み方についても「音」とイメージという観点から、別の考察が可能であると思われる。が、ロシア構成主義と斎藤義重について語る前に、まず日本でのいわゆる「構成派Jと呼ばれる構成主義的傾向をもった作家や作品と1917年の革命という杜会的、政治的背景と密接に結びつくロシアにおける構成主義の展開と本質的な隔たりがあることは、確認しておかなければならないだろう。しかしながらその上で、ウラジオストックとベルリンという二つの都市を経由して日本に入ってきたロシア構成主義が、1920年代の新興美術運動を経て、次世代の斎藤義重に造形上はもちろんのこと精神面でも強い影響を及ぽしていることは大変興味深い。さらにその背景には、斎藤が生まれた翌年の1905年に行われたアインシュタインについて言及していたが、アインシュタインが打ちだした時空間の連続性という学説によって、四次元の世界が生まれ、それは20世紀初頭において絵画の可能性を大きく広げた。斎藤義重のなかにカジミール・マレーヴィチ(1878-1935)が唱えたシュプレマティズムとタトリンが築いた構成主義という対立する二つの要素が混在していることも事実であろう。しかしながら、20世紀とともにもたらされた時空に関する新しい概念は、マレーヴィチ、タトリンの二人にとっても共通する問題であった。そして、その新たな時空の概念こそ、斎藤義重がロシア構成主義から得た最も重要な要素だったのではなかろうか。そうした新たな概念を含んだ構成主義的発想が、作家・斎藤義重が形成されるうえで多大な影響を与えたことは間違いないと思われる。斎藤義重はの一人であり、そしてまたそれを戦後にまで持ち続けた作家であった。YoshishigeとGhiju25)に際し、義重の読み方をYoshishigeからGhijuに変更した。そのため1999年の作品〈14to〉には「G.Saitoh」とサインがなされているが、初期においても「G.Jすなわ4 ロシア構成主義と斎藤義重1936年から1941年までの作品について、斎藤文庫の資料をもとに簡単に述べてきた(1875-1955)による「相対性理論」の発表がある。斎藤は折に触れアインシュタイン1930年代の日本において、それらを敏感に汲み取り、実現しようとした数少ない作家-429 -

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