注(3) 2002年11月2日付「東奥日報(夕刊)」で、青森県美術館整備推進監の黒岩恭介氏が斎藤義重おわりに以上、斎藤義重の没後アトリエに残された資料である斎藤義重文庫を手がかりに、斎藤が美術家としての活動をはじめた1936年から1941年までを中心に考察し、従来ほとんど知られていなかった斎藤の戦前の創作活動に光をあてることが出来た。特にロシア構成主義との結びつきがそれまで考えられていた以上に斎藤にとって強固なものであったことが検証された。今後、さらに残された資料の調査をすすめ、とくに1950年代以降の書簡、写真資料等を紐解くことで、斎藤義重が戦後日本の現代美術をリードしてきた活動の知られざる一面を明らかにするとともに、その水面下に今回の研究対象であったロシア構成主義が、その後もいかなる影響を与え続けたかという点についても、引き続き調査、研究をおこないたいと考えている。(1) 主な「斎藤義重展」として、1978年に東京国立近代美術館、1984年に東京都美術館ほか、1993年に横浜美術館ほか、1999年に神奈川県立近代美術館でそれぞれ開催されている。(2) 「斎藤義重展」2002年1月、岩手県立美術館から始まり、約1年にわたって千葉市美術館、島根県立美術館、富山県立近代美術館、熊本市現代美術館を巡回した。の出生地を弘前と発表した。出生地については、作家の生前から東京と弘前という2説があったが、筆者が斎藤義重本人に確認した結果、作家の意思を尊重して、当時担当して1999年に神奈川県立近代美術館で開催された「斎藤義重展」図録には、あえて出生地を明記しなかった。(4) 日本中学校(現在の日本学園)が1993年に発行した『日本学園百年史』によれば、1920年3月には第4学年として成績一覧に斎藤義重の名前があり、その他同窓生の回想から翌年第5学年に進級していることは確認できるが、卒業者名簿に名前の記載はない。(5) 『日本学園百年史』によれば、斎藤が所属したのは1917年に活動が復活した美術同好会「菫会」と思われる。(6) 「日本に於ける最初のロシア画展覧会」目録。(7)「日本における最初のロシア画展覧会」会場写真、五十殿利治「大正期新興美術運動の研究』スカイドア,1995年,154頁。(8) 斎藤義重・谷川雁「風景の中の絵本」『十代」十代の会,1987年1月号,2頁。(9) 村山知義『構成派研究』中央美術社,1926年2月5日発行(10) この某氏については、筆者がインタビューした際にもたびたび斎藤に質問したが、名前を思い出すまでには至らず不明である。(11) 斎藤文庫に残された家系を示すメモによる。(12) 筆者によるインタビュー「斎藤義重文庫」図録、2004年に収録。(13) 無記名「第3回SPA展」『美術』東邦美術学院,1936年4月号,83頁。(14) 福沢一郎「二科概観」『アトリヱ』アトリヱ杜,1936年10月号,9頁。(1s) r斎藤義重展』図録,岩手県立美術館ほか,2003年,104頁。(16) この展覧会へ斎藤の出品がなかったことについては、姫路市立芙術館所蔵の山本敬輔資料を調-430 -
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